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フリー、シェアの次に何がくるのか?

昨年11月にジェフ・ジャービスの『パブリック』を刊行し、3年前からの『フリー』『シェア』と続いた緩やかなシリーズもめでたく完結(?)したわけですが、時を同じくして、この3冊の監修・解説をしていただいたこばへんこと小林弘人さんの新刊『メディア化する企業はなぜ強いのか?』(サブタイトルは「フリー、シェア、ソーシャルで利益をあげる新常識」)や、糸井重里氏が監修をした話題の『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(帯のキャッチは「フリーでシェアでラヴ&ピースな、21世紀のビジネスモデル」)、さらに「Free論者」として活動する岡田斗司夫氏の『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』や翻訳書で『ぼくはお金を使わずに生きることにした』といった刺激的なタイトルなどが出揃い、いわゆるフリー、シェアという流れも深化しつつあるように感じます。そこで、僕なりに、その次に来るものを整理してみようと思います。

上記のタイトルをザッとみただけでも、2つの大きな方向性があります。ひとつはフリー/シェアを使ったビジネス(価値)創出、もうひとつがフリー/シェアによる無料経済(貨幣経済に対する信用経済)の出現。これらは一見、逆のベクトルのようにも見えますが、実際には相補的な関係にあるのがポイントだと思います。

フリー/シェアビジネスについてはそれぞれの本で具体的な事例がいくつも紹介されている通り、個々の企業における局地戦では成功事例も積み上がっているわけですし、それはグレイトフル・デッドから学べるほどに歴史があり、デジタル時代になって指数級数的に増えているし、無料ということで言えばGoogleやFacebookのように市場を席巻する事態も起こっています。有り体に言って、ネットビジネスにおいて避けては通れない(そしてまだまだ探究すべき)ものだと思います。

一方で、岡田氏は著書の中で『シェア』について言及して、「カーシェアリングを新たなビジネスチャンスだというけれど、それで自動車産業従事者の8割ぐらいが失業するのに「ビジネスチャンス」というのはおかしい」と言っています。岡田氏に言わせれば、デジタルというパンドラの箱を開けたら「あらゆる産業の規模が10分の1になる」わけです。確かにこの問題自体は『フリー』においても指摘されています。

例えばフリーミアムの考えを使って思考実験をしてみると、今まで5%にタダで配って95%の人に売っていたもの(20世紀の無料サンプル・モデル)を、95%の人にタダで配って5%の人に買ってもらう現在のビジネスモデル(デジタル時代のフリーミアム・モデル)に変えたとすると、20倍のユーザー分母を取らない限り、同じ売上が立ちません。いや、5%のプレミアム料金を上げればいい、という考え方もできますが、実際にデジタル経済で起きている価格設定は逆の方向です。だから岡田氏のいう「10分の1」はあながち外れていないのかもしれません。

デジタル経済はマーケットを縮小する、という事例は確かにいくらでも見つけられます。典型的なのが音楽産業、そしていまやメディア産業もそこに向かっているのかもしれません。ただ、急いで付け加えておきたいのは、すべてが無料になるからマーケットが縮小する、という単純な図式ではないということです。例えば新聞や雑誌のペイウォール化は進んでいるわけで、そこには新しいマーケットがデジタル化によって作られていくわけですが、それにともなって既存のマーケットとの総和で見ると縮小していく、といったイメージです。

だから、フリー/シェアを使ったビジネスが成り立つのは、「既存の」あらゆる産業の規模が縮小しても、「新しい」産業がそれにとって変わるからだ、というオーソドックスな産業構造のシフト論に落としこむことも可能です(そして上記のビジネス書はこの新しいビジネスについて詳述しているわけです)。理論的には、産業の新陳代謝は、個々人の失業/再就職の痛みはあっても、ゆくゆくは労働力の再配分も最適化し、経済全体としてはうまく回ります。日本でも楽天やDeNAといった企業が順当に新たな市場と新たな球団を築いているとも言えるわけで(怪盗ロワイヤルもフリーミアム・モデルですね)、単にぼくらの社会通念やメディアがその構造変化をまだしっかり捉えられていないだけ、とも言える気がします。

ただ、『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』の中でも著作権とマーケットの規模の話で触れられていたのですが、「けっきょくフリーでシェアな世界ってみんなが貧乏になるんじゃね?」という疑問は、この「マーケットの縮小感」を目の前にした僕らにとっては、興味深く根源的な問いでもあります。

僕は「貨幣経済としての」マーケットの規模は縮小するのではと思っています。だからある尺度から見ればみんな貧乏になる。でもお金がなくても出来ることや手に入れられるものや体験できることは格段に増えると思うし、それでいいんじゃないか、という仮説を持っています。非貨幣経済が成長して、給料が10分の1になっても非貨幣経済圏で得られる利便が10倍になればチャラにならないか、というわけで、結局、人々の幸せというか厚生レベルが上がり、貨幣+無料経済市場の総体は拡大し成熟するのではないか、と。

こう書くと、リバタリアン的で救いようのない楽観主義のように聞こえますが、糸井さんのいう「フリーでシェアでラヴ&ピース」はそんなことなんじゃないか、と思っているわけです(笑 また、最近言われる「縮小社会」とも少し違います。総体として縮小するのではなく、あくまでも「交換価値」の源泉が貨幣からそれ以外へと移るイメージです。

ここでもう一回冒頭の書籍のタイトルを見てみると、フリー/シェアの先に続いているのは「ソーシャル」であり「ラブ&ピース」であり「パブリック」です。これは明らかに「人」が中心の概念なんですね。そこには非貨幣経済圏でもっとも大切な交換単位(貨幣に代わるもの)が明示されています。人はフリー(無料)にはならないし、シェアをするその結節点になるのも人です。だからデジタル時代には人が中心に来る。こう書くと、すぐに「SNS革命」などといった言葉に回収されて、顕在化したソーシャルグラフや東浩紀さんの言う一般意志2.0のような無意識の集積を利用することで新たな価値が生まれる、という方向に解釈されがちですが、僕がここで言いたいのはそれともちょっと違います。

もともと『パブリック』について考えたのは、『シェア』の成立要件は何か、というところからでした。ライドシェア(元旦から朝日新聞で連載されている「つながってる?〜シェアの現場から」でも紹介されていました)を他人同士でできるその前提、スキルシェアをしあえるその感性のようなものが、日本の文化でそれほどすぐに根付くだろうか、と思ったのですが、有り体に言って、今後この非貨幣経済の恩恵を受けようと思えば、自身を「パブリック」な存在にするか、あるいは「パブリック」に対して価値を提供する主体にならなければならない仕組みになってきています。つまり、そうしないと「人」を交換単位にした経済がうまく回らなくなります。

例えば『ぼくはお金を使わずに生きることにした』のいわゆる「フリーエコノミー」は、ネットを駆使することで可能になっている面は無視できません。非貨幣経済は評判経済/評価経済の面が強く(それは『フリー』でいう「21世紀型フリー」のもう一つの項目です)、その中で既存のローカルなコミュニティを超えて規模の拡大を図ろうとすれば、個々のプレイヤーは「パブリック」な存在になっていくことが最適解となっていくはずです。

逆に言えば、来るべき非貨幣経済というのは、決して「誰もが何でもタダで手に入れられる経済」のことではないでしょう。そうではなくて、個人にヒモづけられた情報なり評価なり信用という交換単位を貨幣の代わりに使うマーケット、ということだと思います。これまでなら閉じられた(ローカルな)空間だけで流通していた情報なり評価、信用というものが、パブリックな場で流通するようになる、そうしなければ経済圏が拡大しないということです。『パブリック』はその非貨幣経済圏での身の処し方を考えるヒントになるはずのもので、一番ビジネス色の薄い本に見えて、実は次の経済における交換単位(貨幣に代わるもの)について真っ向から語った経済書だ、とも言えるのだと思います。

そして、フリー/シェアを使ったビジネスと無料経済が相補的だと冒頭で述べたのは、恐らくこのパブリックな非貨幣経済圏こそが、ビジネスを駆動し、貨幣経済を潤すと思うからです。いわば新しい下部構造です(笑 フリー、シェアの先に何が続くのか? この問いの射程は案外長く、ただひとつの方向性があるわけでもないでしょう。時機を見てまた今後とも考えてみたいと思います。

おまけ:こんなブログポストもw
「現代のグレイトフルデッドは、岡田斗司夫」日刊カシハラ
http://anc.cocolog-nifty.com/next_stage/2012/01/post-44f5.html

Steve Jobs / Walter Isaacson

 期待以上によかったです。なんとなくは彼の人生の物語を知っているつもりでいただけれど、やはり伝記でしっかり通して一人の傑物の人生を読むというのは贅沢な体験だなと思いました。

 彼の変人ぶりやものすごく「嫌な奴だった」エピソードのオンパレードがストーリー全体に花を添えているわけですが(笑、彼のアップルへの(偏)愛や、「明日は倒産」の瀬戸際から世界一の企業価値を持つまでに成長させたその「正史」もさることながら、若いころの生い立ちからドロップアウト〜インド放浪〜LSDときてデザインと技術を完全に一体化させたアップル哲学へと行き着くその精神の軌跡が非常に興味深く共感できました。「LSDを体験した人にしかわからない」というジョブズの発言にニヤニヤしてみたり──Think Different.

 ジョブズのend to endなアップルの製品哲学はクローズドなものとしてマイクロソフトの(そして今はGoogleの)オープン戦略と対置されるわけですが、それはビジネスモデルとしての議論であってジョブズの思想を適切に表しているとは思えないのは、彼のデザインした製品はすべて、人を「自由に」するためのものだったから。パーソナルコンピュータは、それまで資本や権力の象徴であったコンピュータを「人民のコンピュータ」として「僕らの側」のツールにする歴史的な一歩だったわけです。

 そしてそこで大事なのが、ハードやソフトについて何も考えさせない「統合美」という思想です(それがクローズドだとして時に非難されるわけですが)。ハードウェアを究極の直感的インターフェイスにして人間とソフトをいかにダイレクトに、シームレスに、あるいは想像力を刺激する形で繋げるか、つまり『そのデバイスでどんなクリエイティヴなことができるのか』こそが、ジョブズにとって大切だったわけで、そのことはいくら強調しすぎても足りません。そこが彼の原点だし、そういった製品を追い求めてここまで走ってきたのだと、本書を読んで改めて確信しました。

 というのも、パソコンってスペックやら商品やらに拘泥する、いわばハードおたくやソフト比較マニアとか多いですよね。僕は昔からそうしたフェティッシュな気質がまったくないので最初からMac使いだったのですが、Macの世界でもやはりそういう人がいて、思わず「ところであなたはそのMacでいったい何を創りたいの?」と訊きたくなることが昔はよくありました。ちょうど今で言えば、「ソーシャル、ソーシャル」って言っているけれど、いったい「あなた」はそれで何がやりたいの? というのと同じです。今はコンピュータについていちいちスペックを語り合うといったことがなくなって本当に住みやすい世の中になったな、と思うわけですが、ジョブズが目指していたのはもともとそういう世界だと思うのです。テクノロジーにあなたが迎合したり拘泥したり困惑したりするのではなくて、テクノロジーが自然にあなたの創造性を刺激し拡張する世界。それを実現したのがアップルでした。

 ジョブズは、まぁ付き合うには難しい人物だったのでしょうが、一方で人の(そして自分の)クリエイティビティというものを、あるいは誰もがクリエティブで在りたいと思っていて、それが人間の根源的な喜びなのだということを、ナイーブなほどに心底信じていたんだなぁと改めて感じました。それはAppstoreの「検閲」問題のハイ・サブカルチャーとでも言う志向にも見られるわけですが、あれもその源流はクローズドとかコントロールということではなくて、クリエイティビティ志向と表裏でしかないわけで、そういう意味では音楽とか映像といった、どちらかといえば近代の「コンテンツ」を愚直に解放してきたアップルが、今後のネットワーク時代において「関係性」が「コンテンツ」を覆ったときに、それをどう有機的に繋げていくのか、あるいはそれは歴史的にまた次のプレーヤーの役割なのか、20世紀を背負ったジョブズのこの10年の軌跡を思う時に、その先を思わずにはいられないわけです。

 その精神の軌跡に大きな影響を与えたであろう禅との関わり(京都をプライベートで度々訪れていたらしいですね)については本書ではあまり書きこまれていなかったので、次は『The Zen of Steve Jobs』というコミックを注文してみました。年明け発売みたいですね。

モディリアーニあるいは『邪魅の雫』

 京極夏彦の新刊が出ると、僕はいつも喜びと憂鬱がない交ぜとなった微妙な感情を抱く。もちろん新しい作品が読めて嬉しいのだが、それ以外のものに手をつけられなくなってしまうのだ。先月末に出た『邪魅の雫』は新書版で2段組800ページ超。最近はミステリーは全く読まないのに、この京極夏彦の講談社ノベルス・シリーズだけは欠かさず読んでいる。『姑獲鳥の夏』が1994年だから、かれこれ10年以上、シリーズ第9弾となる。
 で、何も予定がない休日の一日をのんびりと読書に当てる。歩いて五分の東京都庭園美術館に行ってお昼を金田中のcafe茶酒でとり、そのまま庭園で読書をするのは僕の中のお気に入りコース。ここの庭は公園というよりやはり「庭園」で、目黒通りと首都高2号に挟まれて車の音が途切れないのに、なぜか100年ぐらいタイムスリップしたような落ち着いた趣がある。今、美術館では「アール・デコ・ジュエリー」の展示をやっているけれども、僕は今日はどっぷりと妖怪と付き合うのでスルー。庭園だけなら入場料200円也。
 『邪魅の雫』も変わらぬ京極ワールドだ。蜘蛛の巣のように緻密に編み込まれたストーリー世界と、繊細な心の機微に分け入るような人物描写。そして何よりも京極堂の「憑き物落とし」が与えるカタルシス。妖怪を扱いながらその妖怪とは結局はその人の心に巣くうものであるという、その現象学的、唯心論的アプローチで、僕は何故か昨日渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで観た「ピカソとモディリアーニの時代」の絵画の数々が頭から離れなかった。
 もちろん僕がこの『邪魅の雫』とリール近代美術館の絵画を連続して体感したのは偶々だけれども、二つの世界が簡単にシンクロするのは、例えば今回の京極堂シリーズでも言及される柳田民俗学の誕生とエコール・ド・パリの誕生が同時期であることとも無縁ではない。民俗・伝承・口伝といった非歴史的なものを初めて学問として定着させた柳田国男。そして写実主義(正史)の極地である印象派を越えて自らの「妖怪」をキャンバスの上に表現したのが、ピカソやブラックのキュービズムであり、ミロやクレーの抽象派であり、エコール・ド・パリの絵画だった、とも言えるのかもしれない。人間の心が作り出す世界認識。人間の心が作り出す魑魅魍魎。その自ら作り出した妖怪を「これは自分で作り出した世界の表現である」と正しく認識出来たときに憑き物が落ちるのだとすれば、両者はまさに「憑き物落とし」として機能したのではないだろうか。
 『邪魅の雫』は京極堂の「憑き物落とし」も良かったし(『塗仏の宴』のような強引さがなかった)、謎解きのプロットもよく編まれていて(『絡新婦の理』や『陰摩羅鬼の瑕』のように最初から分かって興ざめということもない)よく楽しめた。普段はどちらかというと漫画寄りにイメージされるキャラクター達が、今回はモディリアーニの描く、現実に即しているようで決定的に異質な肖像画の数々(いくら見ても白目と色目の区別がないのだ)とダブり、それが誰の心の中にもある妖怪のように、思えるのだった。

『半島を出よ』あるいは希望について

 村上龍さんの『半島を出よ』、ラッキーなことに念校をいただくことが出来、発売に先駆けて読了する。久しぶりの書き下ろし小説、『五分後の世界』と同じ構築系、しかも上下巻で1000ページ以上、ということで期待は最高潮だったが、期待通りの傑作だった。常々「時代を先取りする」という形容詞をつけられる村上さんだが、本作ではそのもの、近未来小説となっている。5分後ならぬ5年後。だから本当に丹念に細部がかきこまれている。「細部のリアリティにとことん拘ることが、物語のリアリティを作り出す」と前にどこかで言っていたが、1000枚をかけてまさに近未来でありながら「あり得る」と読者を唸らせる物語世界を構築している。軍隊や政府機関などは、そういったところではリアリティを作り出しやすいのかもしれない。さらに、本作では章ごとに語り手の視点が異なっている。日本側、北朝鮮コマンド側、しかも一人一人が違う。当然のことながら、一人一人のリアリティは違う。そのことがあらゆる視点が交差することで、物語全体としてのリアリティを紡ぎ出していることはこの作品の大きな特徴だと思う。
 この小説は恐らく北朝鮮拉致被害者の問題の前から構想されていて、そして発売された今は、北朝鮮は核実験をすると報じられ、韓国や中国では反日気運が高まり、まさに日本がアジアの中で孤立の道を歩むのかと思わざるを得ない時期で、北朝鮮コマンドが福岡を占領し、諸外国はこれを黙認し、日本政府が福岡を切り離すというこの物語のプロットに、一定のリアリティを感じられる空気がある。しかし村上さんはもちろん、政治的なことをここで描きたかったわけではないし、仮想的として北朝鮮が一番現実的だと思ったわけでもないと思う。そうではなくて、「他者」というか「異物」が日本という「共同体」に入り込んできたときの「リアリティ」を村上さんは描きたかったのではないか。
 日本社会は基本的に異物を受け付けない。排除する。受け入れる文脈を共有していないし、受け入れるだけの主体を構築しているわけでもない(そのことは日本政府の対応に描かれている)。そうしたときに、ただたんに異物が入ってきて大変だった、というわけではなくて、異物としている他者にも他者のリアリティがあり、そのリアルとリアルがぶつかったときに、そこに否応なく向き合わざるを得ない状況というのをプロットとして用意したかったのだと思う。北朝鮮は好戦的だったりキムジョンイルだから北朝鮮にしたのではなく、あくまでも「あまりにも現実が知られていない」日本にとっての異物だからこそ、北朝鮮だったのだと思う。
 もう一昨年になるが、村上さんに北朝鮮の映画を見せてもらったことがある。そこには普段僕たちが意識する北朝鮮とはまったくちがう、日常の北朝鮮と、日常の中に巧妙にすり込まれている主体思想と、両方において興味深い映像が流れていた。そのリアルさを担保にしたとき、他者として福岡に現れた北朝鮮に対峙する日本のリアルはあまりにも儚い。
 では「リアル」「リアル」というが、何がリアルなのかと考えたときに、村上さんが提示したものが「イシハラ・グループ」なのだ。殺人や放火やとにかく社会からドロップアウトした若者たち。彼らの行為はつまりは生きている世界の中でリアルなものをなんとか見つけようとして犯した行為にすぎない。彼らはイシハラの元でなんとか生きることのリアルというか、いちいち「社会」との折り合いをつけずに生きられているが、毒虫と毒ガエルしか興味がなかったり、武器オタクだったり、テロに人生を捧げたいと思ったり、そういう中でしか「リアル」を実感できない彼らは、北朝鮮コマンドのリアルと、表層で生きていないという点で実は同質なのだ。
 だから、日本の中ではどちらも「異物」としてしか生きられない。しかし、北朝鮮コマンドの存在の強度が日本を揺るがせたように、イシハラ・グループの持つリアルの強度だけが、それに対峙し、日本を救い得る。日本でそのような「強度」を孕む存在がいたという点において、「奇跡の物語」というのは言い得ているのかもしれない。