クリス・アンダーソンから日本人への質問 ~『MAKERS』編集後記2

※以下はNHK出版の『MAKERS』サイト「MAKER MOVEMENT!!!」に寄稿したものを転載したもの。

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「教えてほしい。彼は100%メイカーで、その価値観を共有しているのに、なぜ大企業に就職するんだろう?」


 それはWIRED Conference 2012の控え室での出来事だった。とある日本の学生とひとしきり話していたクリス・アンダーソンが、彼が去ったあとで真顔で僕に問いかけてきた。その学生さんは、デジタル・ファブリケーション機器に精通し、自分でプロトタイピングしてアイデアを形にすることに慣れ親しんだ、まさにMakerを絵に描いたような学生だった。その彼が就職先として選んだのは日本の大手電機メーカーだという。そのことにクリスはかなりショックを受けたようだった。

別に、大手電機メーカーが悪いというわけではもちろんない。『MAKERS』で描かれた「モノのロングテール」とはいわゆる「大手」がなくなることではなく、単に大手による「独占」がなくなるというものだ。だから選択肢が広がりより豊かになるという話にすぎない。それでも、優秀でMAKERSのスピリットを体現するような学生(新たなイノベーションを起こすロングテールの担い手)と、ヘッド部分に留まろうとしてグローバル経済の中でもがく姿が目立つ日本の大手電機メーカーとがなぜ結びつくのか、クリスの頭の中では理解できなかったようだ。それが冒頭のセリフにつながったのだろう。

でも、この話は単に一人の学生の将来に限ったものではない。それどころか、クリスが来日した2日間、メディアのインタビューやWIRED Conference 2012におけるセッションからも繰り返し明らかになった根本的な問題の、ひとつの変奏なのだと今では思える。たとえば来日中のインタビューでクリスが繰り返し受けた質問は、「メイカームーブメントは日本でも根付くのか?」というものだった。でも、ちょっと考えると、この問いの立て方は少しおかしい。

もし質問が「3Dプリンタはこれから安くなって普及するのか?」あるいは「ウェブによる様々なサービスは進化していくのか?」という質問だったら、それには単純にイエス(あるいはノー)と言えるだろう。でも、メイカームーブメントが人々のクリエイティビティを実現させ、自分の力でアイデアをプロダクトにする動きのことを言うのだとすれば、それが根付くのかどうかは、言い換えれば、クリエイティビティやアイデアを持ってそれを実現しようと日本人が思うかどうかは、日本人である僕たち自身のほうが分かるはずだ、と僕なら思う。

これと似たような話を、WIRED Conference 2012にも登壇した小林弘人さん(インフォバーンCEO)が以前語っていた。1994年当時にWIRED日本版を立ち上げ当初、彼はWIREDという雑誌について説明する前に、まずインターネットとは何かを繰り返し説明しなければならなかったそうだ。大手メディアの記者から、「そんなものが流行るんですか?」と言われたという(今だからこそ笑い話だけれど)。今回の来日時のインタビューでも、とある対談で、「3Dプリンタとは何なのか」を繰り返し質問され、その説明にクリスは20分を要した。大きな変革の予感にさらされた時、人は得てして目に見える分かりやすい変化に注目してしまう。本当に変化を迫られているのはテクノロジーではなくて、それを使いこなす僕ら自身なのに。

だから今回のWIRED Conference 2012の最後のトークセッションが、期せずして「日本人論」になったのもうなずける(詳しくはこちらのポストを読んでいただきたい)。あの控え室での会話で、「せっかくならこれをトークのネタにしては?」と僕が振ると、クリスは「いや、それはやめておこう」と応えた。それでも彼がけっきょくこの話題をトークセッションで出したのは、やはりそこに本質的な問題が横たわっていると感じたからなのかもしれない。

そのことは、壇上に上がった他のスピーカーからも伝わってきた。日本はものづくりにプライドと歴史と技術を持っている。AKQAバイス・プレジデントのレイ・イナモト氏は「日本が各国から一番クールだと思われいている」という調査を例に上げて、必要なのは自信だと説き、ファブラボジャパン発起人、慶應義塾大学環境情報学部准教授である田中浩也氏は、工作機器こそ実は日本のお家芸なのだと国産メイカームーブメントを鼓舞した。

(参考)アドビ システムズ、“クリエイティビティ”に関する世界的な意識調査を実施

一方で、日本人は商品への愛情がないのではというPCHインターナショナルのリアム・ケイシーや、「なぜ大企業に就職するんだろう?」と疑問を持つクリスの目には、日本はまったく違った姿に写っている。この乖離はなんだろうか? そこにこそ、日本がメイカームーブメントに対峙することで明るみに出る、次の一歩のためのヒントがあるのではないだろうか?

例えばセッションの後に行なわれた会場からの質問が象徴的だった。ドアを作る製造会社を経営しているというその質問者は、「ドアについてコミュニティを作るといっても、ドアに興味がある人なんて少ないだろうし、オープンソースで開発といっても、中国にすぐ盗まれて終わりではないか?」と、メイカームーブメントをどう自社で活かせばいいのかという主旨の質問をした。コミュニティやオープンソースの部分こそ、日本でメイカームーブメントが進展していく上でもっとも重要な課題ではないかと僕も常々思っている。

それについてクリスは、「ドアはまだまだ進化できるし(たとえば施錠の有無がスマホから分かったりとか、鍵がなくても特定の人を認識して自動で開くとか、誰がいつ通過したかがログとしてとれるとか、いくらでも考えられるだろう)、ネットでそれを投げかければ、様々な人が、様々なアイデアやソリューションを出してくれるはずだ」と答え、ユーザー視点から考えることを強調した。「あなたやあなたの周りには、まだまだアイデアがあるはずだ」と。

メイカームーブメントの根底には、個人が自分のアイデアやクリエイティビティを企業や大組織に頼らなくても実現できる、という思想がある。それは「パーソナル・コンピュータ革命」の時代から変わらない。その背景には、個の才能を誰もが活かせる社会こそ善なのだという信念があるからだ。クリスが本当に伝えたかったこと、あるいは彼が自らのキャリアによって身を持って示していたのもここなのだ。つまるところ、クリスの来日中に感じていた、ある種の「噛み合わなさ」のようなものは、恐らくこの前提のところをメイカームーブメントから感じられるかどうかにあるのかもしれない。

日本はモノづくりや技術、それにクリエイティビティやアイデアにおいても素晴らしいものを持った国だ、でもそれを大企業に頼らず個人やチームで実現していくには、メイカームーブメントを「アメリカから来たブーム」とだけ捉えるのではなく、自らが積極的に取り込んでいくべきチャンスだと捉えなければならない。だからクリスはロールモデルの必要性を感じ、「日本からどんどんヒーローを出していき、『WIRED』日本版の表紙を飾ってもらいたい」と言ったのだろう。

夜に行なわれたWired Conferenceの第二部は、メイカームーブメントではなく『WIRED』本誌についてのクリスと若林編集長のセッションだった。最後に今後の『WIRED』についてアドバイスを求められたクリスはこんなことを言っている。「『WIRED』はつねにマジョリティによるメインカルチャーではなくサブカルチャーに注目し、時としてそれがスーパーカルチャーになるのを支えてきた。大企業や体制や既存組織の側ではなく、新しいムーブメントを始めようとするスタートアップや個人の側を応援してきた。今後もそうした雑誌であって欲しい」と。メイカームーブメント自体も、まさにその延長にある。果たして僕たちには出来るだろうか? そんな問いを投げかけられた、クリス来日の2日間だった。

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翻訳書の現在〜マスマーケットと開かれた知:アルファ・シノドス “α-synodos” vol.106+107

ご縁があってsynodosのメールマガジン「アルファ・シノドス “α-synodos” vol.106+107」に寄稿しました。有料のメルマガですが、次号発行以降なら転載可ということでもともと許可をいただいていて、この週末にデジタルガレージさん主宰の The New Context Conference 2012 TokyoでJoiさんのお話を聞いていてふと思い出したので転載します。とにかくいただいたお題が難しく、議論がやや散漫で晒すのは恥ずかしくもあるのですが、これが今の自分の力量と諦めて、ちゃんと残しておこうと。荻上チキさん、編集の河村信さん、本当にお世話になりました。

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synodos mail magazine

知性を高める情報メルマガ
アルファ・シノドス
“α-synodos”

vol.106+107(2012/8/25)

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★今号のトピックス

1.政治の競合モードを再考する
………………………吉田徹

2.早野龍五氏ロング・インタビュー2(聞き手:荻上チキ)
――原発事故後、なぜ早野氏は「黙らなかった」のか

3.対談/熊谷晋一郎×荻上チキ
誰のための「障害者総合支援法」

4.不充分な教育の代償
………………………畠山勝太

5. 対談/川口有美子×荻上チキ
「尊厳死」〜生と死をめぐる自己選択

6. インタビュー/ホンマタカシ(聞き手:永井雅也)
撮ることそれ自体――もう一つの見方

7. 翻訳書の現在 〜マスマーケットと開かれた知
………………………松島倫明

8. インタビュー/樽本周馬
国書刊行会《未来の出版、未知の編集》

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chapter 7
松島倫明
翻訳書の現在 〜マスマーケットと開かれた知

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思想書や難しい本は売れないというのは本当だろうか?
ネット時代の基本思想書3部作『フリー』『シェア』『パブリック』
の編集者による来るべき時代の、市場と知の新しい関係
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◇版権取得

今日もひとつ、ビッグタイトルをオークションで逃した。アメリカの超有名大学の某ラボの所長が描く、イノベーションを起こす21世紀型組織の作り方、といったテーマで、内容構成のプロポーザル(原稿はまだ1文字も執筆されていない)を読む限り、resilience、agile、pullといったキーワードとともにこれからの価値観とクリエイティビティの変容を捉えた刺激的な提言が詰まっていた。2年後に刊行予定のこのタイトルへの注目は当然のことながら世界的に高く、日本でも各出版社が翻訳権のオークションに参加し、高額ビッドの末にどこかの出版社へ落札されていった。

こうしたビッドによる版権取得は翻訳書出版においては日常の光景で、編集者にとってはタイトルの狩猟とともに、オークションを勝ち抜くべく社内を説得し賭け金を確保することも大事な仕事のひとつとなる。マスマーケットを狙って誰もが「勝負できるタイトル」だと思えば当然ビッドも白熱し、最後は各出版社の読みと体力勝負になっていく。今回がまさにこのケースだったわけだ。

翻訳書の出版において、もっともユニークかつ重要なのが、この「版権取得」だと言える。版権取得編集者という専門職をおく出版社もあるほどだ。毎日のように国内外のエージェントや海外の出版社から新しいタイトルの紹介がPDF添付のメールで送られてくるし、年に数回は海外のブックフェアに行って、向こうの権利者と次々とミーティングを交わして大量のタイトルを狩猟する。

それらはたいてい、本国でもまだ刊行前のもので、原稿段階で検討することもあれば、冒頭のようにまだ企画段階のプロポーザルが検討用資料ということもある。それだけをもとに「買い」を判断し、時には10万ドル以上のアドバンス(印税前払い)を提示していくのだ。

主に英語圏のタイトルの千本ノックを受けていて日々思うのは、その圧倒的な質と量だ。日本は世界でもっとも海外の書籍を翻訳して出版している国だと聞いたことがあるけれど、膨大な数の海外タイトルを日々検討して取捨選択してビッドしている現場から見れば、日本で実際に翻訳され出版されているタイトルなんて、ほんの上澄みに過ぎない。

そのことは編集者としてもったいなく思うわけだけれど、同じように「もったいない」と思うのは、せっかくこうしたセレクションを経て刊行された翻訳書でも、日本のマーケットで正当に認知されないまま書物の海に埋もれてしまうことがままあることだ(いわゆる「なんでこの本、日本では売れてないの!?」というやつだ。その先には「なんでこの本、日本では刊行されてないの!?」というバージョンもある……)。

◇一方通行

もちろん理由はたくさんあるだろう。ただそのひとつには、日本国内の言論の生態系なり知の体系が、海外と接続していないことが挙げられるはずだ。膨大な情報を受容はしているし翻訳もしているけれど、こちらからのアウトプットを輸出する機会が殆どない。有り体に言えば一方通行だ(それが辺境としての日本という国の成り立ちだとも言えるかもしれないが、ここでは深入りしない)。

『知はいかにして「再発明」されたか』(イアン・F・マクニーリー/ライザ・ウルヴァートン著、日経BP社)の中で、「グーテンベルク時代の始まりには、本よりもそれについて交わされる手紙による知的議論により権威があった」というくだりがある。本を文脈として位置づける相互のオープンな接続がなされることで、知識のネットワークが生まれ、海外の本も国内の文脈の中に有機的に結びつけることができたのだろう(それは現在のネット時代の知のメタファーにもなっている)。

その後、こうした知のネットワークは専門の分化と専門家の登場によって崩れ、新たにアカデミズム的な知の制度が誕生することになる。おそらく翻訳書の世界でも、制度化され閉じられた学術出版の世界では、相互参照システムがボーダーレスに働いているだろう。
だが、オープンな知の生態系、それこそ本誌シノドスが標榜するようなアクチュアルな領域では、アプリオリに文脈が整備されていることはなく、常にアクロバティックな知の再構築がなされなくてはならない。そして、オープンな知の生態系においては学術書よりもマスマーケットを狙った一般書にこそ、多様で開かれた本来の「知」が立ち現れるはずだ。そう思うのは、まさに翻訳書においてもっともアクチュアルで面白く、層が厚いのがこの領域だからでもある。

例えば僕が版権を取得した本で言えば、デジタル時代の新たな無料経済の可能性について書かれた『フリー』(NHK出版)がある。著者はデジタル/テクノロジー/サイエンス/カルチャーがクロスする領域を扱うWIRED誌の編集長クリス・アンダーソン。本書は「デジタル」「ビジネス」「マネー」といったジャンル分けも可能だけれど、その根底にあるのは「テクノロジーによって社会の大きなパラダイムチェンジが起こりつつある中で、次の時代を生きていくための思想」だ。

その後に続けて刊行した『シェア』(レイチェル・ボツマン他)や『パブリック』(ジェフ・ジャービス)も同様で、デジタルとインターネットの世界にもともと深くインストールされた原理が、社会を動かす下部構造となった現状を切り取っている。

『フリー』『シェア』『パブリック』が書店で並べられているのは「ビジネス書」のコーナーだろう。それでも「ネット時代の基本思想書3部作」と巷で呼ばれているように、この3冊が並ぶことで、西海岸的な楽観的テクノユートピア主義とリバタリアニズムを背景にした大きな潮流の中での、デジタルな国家・社会・経済・文化論のテキストとなっていることが読み取れるはずだ。つまりマスマーケットに向けて書かれたビジネス本の中にも、アクチュアルな知の領域を読み込むことができる。

◇ネット時代の基本思想書

そのことを的確に理解している一人が批評家の東浩紀氏で、3年前に『フリー』に寄せた書評では、「多くのネット関連の啓蒙書が、そのような観点から見ると新しい国家論や社会論に見えてきます。社会思想の専門家が人文書だけ読めばいい時代は、終わり始めています」(週刊朝日 2009.12.1)と結んでいる。そしてこの「ネット関連の啓蒙書」は、日本においては翻訳書がもっとも得意とする領域のひとつなのだ。

脱線になるが、東氏の同じ書評を今回読み返してみて以下の1文に目がとまった。「アンダーソンがこの新著で『フリー』をキーワードに描き出した問題、それは古い社会思想の言葉で言えば『公共性』の問題にほかなりません」。これは『フリー』から『シェア』、そして『パブリック』へと、各テーマが内包する問題意識をさらに掘り下げていった結果つながっていった一連の流れを、驚くほど正確に予言している。

面白いのは、この3冊はアメリカではまったくバラバラに刊行されたものだということだ。先ほど、翻訳書は文脈を剥がされて刊行されると書いたけれど、これらはそれを逆手にとって、まさに「3部作」という文脈を作り上げて日本で刊行したものだった。翻訳書の編集者がある種のキュレーターでもあるのはこういった意味においてであり、後に『フリー』のクリス・アンダーソンと『シェア』のレイチェル・ボッツマンは、ロンドンで行われたWIRED Conference 2011で共演しているので、この「キュレーション」自体がまた、必然にして予言的でもあった。

◇変化はすでに起こっている

さて、話を戻して、新しい知のネットワークの中でマスマーケットを狙った翻訳書(例えば『フリー』は18万部のベストセラーとなった)がどうして面白いのかをもう少し考えてみよう。もちろんいろいろな視点があるはずだ。でも版権取得編集者としてまずは、コンテンツが生成する場、それもクリエイティブなコンテンツが生成する場を考えてみたい。

版権取得において僕がいつも心がけているのは、今後5年、10年の社会、文化、経済のパラダイムチェンジを描き出すような、長いパースペクティブをもったタイトルを見つけることだ。その理由は「本」というメディアの特性にもある。これだけリアルタイムのフロー情報が行き交い、情報の量もチャネルも爆発的に増えた現代において、本は情報の「ストック」としての機能を期待されている。

突発的な時事問題や雑誌の特集記事で事足りそうな内容を本にすることのリアリティは、どんどんなくなっている、と思う(雑誌以上、書籍未満の原稿量をパッケージにする電子書籍の動きがあるけれど、それはまた別の話として)。

ではそうしたパラダイムチェンジをどこでどうやって捉えるのか? ウイリアム・ギブソンの有名な言葉「The future is already here, it’s just unevenly distributed.」のとおり変化はすでに起こっている。それをつかまえることで今日的な「リアル」と切り結んだコンテンツとなるはずだし、そこから深い思索を導き出せれば、長いスパンのストック情報となっていくはずだ。

ではその「unevenly」に偏在する未来を最初に見られる場所はどこにあるのか? 例えばネット/デジタル社会やサイエンスの領域について言えば、やはりアメリカが真っ先に思い浮かぶだろう。

見方を変えると、ネットとグローバル化によって世界はよりフラット化しているように見えて(だからこそ)、リチャード・フロリダによれば、世界は今後ますます凸凹に分断されていくという(『クリエイティブ都市論』ダイヤモンド社)。その中で創造性の高い優秀な人材(クリエイティブ・クラス)が集中していく都市は「クリエイティブ・クラスター」と呼ばれるが、それは世界のどこなのかという問題だ。

◇一極集中

クリエイティブ・クラスとはアーティストやプログラマー、科学者、技術者、あるいは金融、法律の専門家などの知識労働者のことだとすると、その答えもまた、自ずと見えてくるだろう。例えば冒頭で挙げた注目のタイトルを執筆予定の某ラボの所長が日本人(と言えばお分かりだろう)でありながら英語で執筆することからも読み取れるように、ある分野のクリエイティブ・クラスはますます英語圏に集っている。ネットワークとコ・クリエーションが価値の源泉となる時代に、この流れはますます加速するだろう。

これは、ポピュラーサイエンスを例にとってもわかりやすい。このジャンルはやはり翻訳書が圧倒的に強い。それこそリチャード・ドーキンスやスティーブン・ホーキングにはじまって、『フェルマーの最終定理』のサイモン・シン、『エレガントな宇宙』のブライアン・グリーン、『パラレル・ワールド』のミチオ・カクに『ワープする宇宙』のリサ・ランドールなど、宇宙物理学、量子物理学、進化生物学、分子生物学、脳科学といった最先端の領域のタイトルが常に並ぶ。

つまり、未来が偏在する場所としてコンテンツ生成に適した場所であると同時に、クリエイティブ・クラスが集う(この2つはコインの表裏なわけだけれど)英語圏から、新しい知が現れてくるのは当然であり、だからこそ、翻訳書の出番があるのだと言える。実際に、翻訳書の編集者をしていて何よりも楽しく刺激的なのは、さまざまなタイトルを通してこうした偏在する未来を垣間見られたり、科学的に最新の知見に日常的にふれることができることだ(そのすべてを理解することはもちろんできないわけだけれど)。

ただ、翻訳書のある種の優位性を、こうした場や環境の問題に還元してしまうことは、もっと大切な論点を見過ごしてしまうことになる。たとえばクリエイティブ・クラスということでは、もちろん日本だって捨てたものじゃないはずだ。

先ごろアドビ システムズが発表した「クリエイティビティ」に関する意識調査(米、英、独、仏、日の5か国で実施)では、日本が世界でもっともクリエイティブな国だと見られていることが話題になった(ただしこれはあくまで意識調査として他国からそう「見える」というもので、明確な指標に基づくものではない。各回答を精査すると、逆の結果も見られる)。東京も世界で一番クリエイティブな都市、つまりクリエイティブ・クラスターとなっている。実際、ノーベル賞の数だって、胸を張っていいはずだ。

◇市場と読者

では日本においても最先端のコンテンツが次々と生成され、世界レベルでそれが受容されているかといえば、一概にそうだとは言えないだろう。何が違うのだろうか? もちろん冒頭に書いたような言語の問題は大きいだろう。つい先ごろも加藤典洋氏が「海の向こうで『現代日本文学』が亡びる あるいは、通じないことの力」と題して日本の現代小説が翻訳されなくなることの危機を書かれていたけれど(新潮2012年9月号)、当然ながらこれはフィクションに限ったことではない。

それに対して、例えば先の東浩紀氏が代表を務めるゲンロンでは、新刊の『思想地図β3』に一部英訳をつけるなど意欲的な試みをしていてぜひ応援したくなる。ただ、ここでは言語以外のファクターを考えてみたい。実はそれこそが、僕の中で「ベストセラーの法則」とも言うべきものでもある。つまり、ここでいう差とは、「知の在り方」の問題のように思えるのだ。

先ほどのポピュラーサイエンスのジャンルで特筆すべきなのは、現場の第一線で活躍する科学者が最先端の科学的知見を、専門書ではなく一般書としてマスマーケットの「一般読者」(ここが重要)に語るジャンルが確立しているということだろう。さらにはサイエンスライターの層の厚さもある。サイモン・シンもそうだが、専門的知見の一番おもしろい部分を一般読者向けに「翻訳」して書けるサイエンスライターが豊富にいる。それを支えるのは、300ページにのぼるポピュラーサイエンス本を楽しみに読む、リテラシーと知的好奇心の高い一般読者の分厚い層だ。

それと同じことは「ネット系の啓蒙書」にも言えるだろう。ネット社会やネットビジネスの現場の第一線で活躍する人々が、それを「一般読者」に向けて語ることができている。逆に言えば、ともするとビジネス書として消費されるクリス・アンダーソンの『ロングテール』や『フリー』を、社会論や国家論まで射程に入れた啓蒙書として読み取れるマスマーケットが存在し、そこが「売れ筋」にもなっている。

たんなるビジネスハウツーやセルフヘルプではなく、現実に目の前で目まぐるしく変わる社会やビジネスと人間の関係性を、オープンな知の体系の中で捉え直し、「偏在する未来」をしっかりと見出していく。そうした態度だけが、本当のアクチュアルで開かれた「知」を担保するのだと僕は思っている。そしてある種の海外のタイトルは、そうした態度で作られている。それを探すのが、僕の役目だ。

◇知の再編成

例えば僕が「なぜ日本で翻訳がでないのか」と思うタイトルにデビッド・ワインバーガーの『Too Big To Know』やケヴィン・ケリーの『What Technology Wants』がある。ともにデジタル/ネットワーク時代の人類の知と社会の変容や、人類とテクノロジーとの関係性について書かれた一冊だが、彼らは一般読者の目線で透徹した思考を紡いでいく稀有な書き手だと言ってもいいだろう。

デビッド・ワインバーガーはハーバード大学法科大学院バークマンセンターのフェローだが、同時にマーケティング・コンサルタントとして活躍している。ケヴィン・ケリーはホール・アース・カタログやWIRED誌の創刊に関わってきた孤高のThinkerだ。そういった多様な出自の著者が一般読者に語りかけ、その思想を受け止める懐の深い読者が一定のマスで存在する世界を僕はいつも羨ましく思う。

そろそろまとめよう。ある種のジャンルで翻訳書がアクチュアルな知の領域を担えるのは、それが書き手の専門性や場の優位性に閉じこもっているのでなく、「一般読者」に向けて知を解放する目線を持っているからだ。日本で「専門的な知を一般読者向けに」となると、これまでは、ブルーバックスや新書・選書のたぐいになるのだろう。それよりもっと読み応えのあるものとなると、ともすると言論サークルや学術サークルという内輪に入り込んでしまうきらいもあったかもしれない。

本稿で再三使ってきた「開かれた知」「オープンな知」とは、言うなればマスマーケットを狙える知のことだ。好奇心旺盛でリテラシーの高い「マス」の読者に投げられる知。それは決して知の価値を減じることではなく、知のエンゲージメントを上げることに他ならない。グーテンベルクの時代に、本のまわりに手紙のネットワークが生まれたように、マスマーケットで受容され、語られ、引用され、文脈付けがされることで、はじめて本当のグローバルな知のネットワークが出来上がるはずだ。

日本でも、知のオープン化はどんどん進んでいるのだと思うし、何より本誌αシノドスが牽引するような、最前線の知を生活に身近な場で展開していくような試みは、出版という制度の中でも外でもますます広がっている。出版の中の人間としては、最先端の著者を見つけ、そのコンテンツをマスマーケット向けに翻案する態度とスキルを磨きつつ、しっかりと読み応えのある分量でそれを読者に届け、知的好奇心を満足させるような、著者=編集者=読者の生態系を作るという意味で、まだまだできることがあるだろうと自戒を込めて思う。

一方で、もはやそんなことを言うこと自体が傲慢な過去の遺物だという可能性もある。デビッド・ワインバーガーの『Too Big To Know』で語られている通り、現在は知の再編成が起こっている。書物という完結したメディアに閉じ込められたものだけが「知」ではなく、ネットワークの関係性の中でオープンな知が立ち現れてくるのだとすれば、編集者が本というパッケージに入れるコンテンツの取捨選択をすることの意義は今後ますます小さくなっていくだろうし、生態系をつくることに関与できる余地も少なくなっていくのかもしれない。

固定化され、特権化されるメディアに根ざした知ではなく、オープンに公開され、シェアされ、コラボレーションによって自由にリミックスされ、常に発展する知のあり方は、とても刺激的なはずだ。それこそが、『フリー』『シェア』『パブリック』から見えてきた世界でもある。

ただしそれは、来るべき「ネットワーク的な知」に僕たちが参画できれば、の話だ。つまり、世界的な知のネットワークに。その時にまだ、もしかすると「翻訳書」的なものの未来形が生まれる余地があるのかもしれない、とも思っている。

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松島倫明(まつしま・みちあき)

書籍編集者/NHK出版 編集局学芸図書編集部チーフエディター/1972年東京生まれ/一橋大学社会学部卒/1999年から村上龍氏のメールマガジンJMMやその単行本化などを手がけ、2004年からは翻訳書の版権取得・編集に従事。ノンフィクションから小説までを幅広く手がけている。代表的な作品に『フリー』『シェア』『パブリック』『Think Simple』『国のない男』『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』『BORN TO RUN』など。今年10月にクリス・アンダーソンの最新作『MAKERS 21世紀の産業革命が始まる』を刊行予定。
Twitter:@matchan_jp
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フリー、シェアの次に何がくるのか?

昨年11月にジェフ・ジャービスの『パブリック』を刊行し、3年前からの『フリー』『シェア』と続いた緩やかなシリーズもめでたく完結(?)したわけですが、時を同じくして、この3冊の監修・解説をしていただいたこばへんこと小林弘人さんの新刊『メディア化する企業はなぜ強いのか?』(サブタイトルは「フリー、シェア、ソーシャルで利益をあげる新常識」)や、糸井重里氏が監修をした話題の『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(帯のキャッチは「フリーでシェアでラヴ&ピースな、21世紀のビジネスモデル」)、さらに「Free論者」として活動する岡田斗司夫氏の『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』や翻訳書で『ぼくはお金を使わずに生きることにした』といった刺激的なタイトルなどが出揃い、いわゆるフリー、シェアという流れも深化しつつあるように感じます。そこで、僕なりに、その次に来るものを整理してみようと思います。

上記のタイトルをザッとみただけでも、2つの大きな方向性があります。ひとつはフリー/シェアを使ったビジネス(価値)創出、もうひとつがフリー/シェアによる無料経済(貨幣経済に対する信用経済)の出現。これらは一見、逆のベクトルのようにも見えますが、実際には相補的な関係にあるのがポイントだと思います。

フリー/シェアビジネスについてはそれぞれの本で具体的な事例がいくつも紹介されている通り、個々の企業における局地戦では成功事例も積み上がっているわけですし、それはグレイトフル・デッドから学べるほどに歴史があり、デジタル時代になって指数級数的に増えているし、無料ということで言えばGoogleやFacebookのように市場を席巻する事態も起こっています。有り体に言って、ネットビジネスにおいて避けては通れない(そしてまだまだ探究すべき)ものだと思います。

一方で、岡田氏は著書の中で『シェア』について言及して、「カーシェアリングを新たなビジネスチャンスだというけれど、それで自動車産業従事者の8割ぐらいが失業するのに「ビジネスチャンス」というのはおかしい」と言っています。岡田氏に言わせれば、デジタルというパンドラの箱を開けたら「あらゆる産業の規模が10分の1になる」わけです。確かにこの問題自体は『フリー』においても指摘されています。

例えばフリーミアムの考えを使って思考実験をしてみると、今まで5%にタダで配って95%の人に売っていたもの(20世紀の無料サンプル・モデル)を、95%の人にタダで配って5%の人に買ってもらう現在のビジネスモデル(デジタル時代のフリーミアム・モデル)に変えたとすると、20倍のユーザー分母を取らない限り、同じ売上が立ちません。いや、5%のプレミアム料金を上げればいい、という考え方もできますが、実際にデジタル経済で起きている価格設定は逆の方向です。だから岡田氏のいう「10分の1」はあながち外れていないのかもしれません。

デジタル経済はマーケットを縮小する、という事例は確かにいくらでも見つけられます。典型的なのが音楽産業、そしていまやメディア産業もそこに向かっているのかもしれません。ただ、急いで付け加えておきたいのは、すべてが無料になるからマーケットが縮小する、という単純な図式ではないということです。例えば新聞や雑誌のペイウォール化は進んでいるわけで、そこには新しいマーケットがデジタル化によって作られていくわけですが、それにともなって既存のマーケットとの総和で見ると縮小していく、といったイメージです。

だから、フリー/シェアを使ったビジネスが成り立つのは、「既存の」あらゆる産業の規模が縮小しても、「新しい」産業がそれにとって変わるからだ、というオーソドックスな産業構造のシフト論に落としこむことも可能です(そして上記のビジネス書はこの新しいビジネスについて詳述しているわけです)。理論的には、産業の新陳代謝は、個々人の失業/再就職の痛みはあっても、ゆくゆくは労働力の再配分も最適化し、経済全体としてはうまく回ります。日本でも楽天やDeNAといった企業が順当に新たな市場と新たな球団を築いているとも言えるわけで(怪盗ロワイヤルもフリーミアム・モデルですね)、単にぼくらの社会通念やメディアがその構造変化をまだしっかり捉えられていないだけ、とも言える気がします。

ただ、『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』の中でも著作権とマーケットの規模の話で触れられていたのですが、「けっきょくフリーでシェアな世界ってみんなが貧乏になるんじゃね?」という疑問は、この「マーケットの縮小感」を目の前にした僕らにとっては、興味深く根源的な問いでもあります。

僕は「貨幣経済としての」マーケットの規模は縮小するのではと思っています。だからある尺度から見ればみんな貧乏になる。でもお金がなくても出来ることや手に入れられるものや体験できることは格段に増えると思うし、それでいいんじゃないか、という仮説を持っています。非貨幣経済が成長して、給料が10分の1になっても非貨幣経済圏で得られる利便が10倍になればチャラにならないか、というわけで、結局、人々の幸せというか厚生レベルが上がり、貨幣+無料経済市場の総体は拡大し成熟するのではないか、と。

こう書くと、リバタリアン的で救いようのない楽観主義のように聞こえますが、糸井さんのいう「フリーでシェアでラヴ&ピース」はそんなことなんじゃないか、と思っているわけです(笑 また、最近言われる「縮小社会」とも少し違います。総体として縮小するのではなく、あくまでも「交換価値」の源泉が貨幣からそれ以外へと移るイメージです。

ここでもう一回冒頭の書籍のタイトルを見てみると、フリー/シェアの先に続いているのは「ソーシャル」であり「ラブ&ピース」であり「パブリック」です。これは明らかに「人」が中心の概念なんですね。そこには非貨幣経済圏でもっとも大切な交換単位(貨幣に代わるもの)が明示されています。人はフリー(無料)にはならないし、シェアをするその結節点になるのも人です。だからデジタル時代には人が中心に来る。こう書くと、すぐに「SNS革命」などといった言葉に回収されて、顕在化したソーシャルグラフや東浩紀さんの言う一般意志2.0のような無意識の集積を利用することで新たな価値が生まれる、という方向に解釈されがちですが、僕がここで言いたいのはそれともちょっと違います。

もともと『パブリック』について考えたのは、『シェア』の成立要件は何か、というところからでした。ライドシェア(元旦から朝日新聞で連載されている「つながってる?〜シェアの現場から」でも紹介されていました)を他人同士でできるその前提、スキルシェアをしあえるその感性のようなものが、日本の文化でそれほどすぐに根付くだろうか、と思ったのですが、有り体に言って、今後この非貨幣経済の恩恵を受けようと思えば、自身を「パブリック」な存在にするか、あるいは「パブリック」に対して価値を提供する主体にならなければならない仕組みになってきています。つまり、そうしないと「人」を交換単位にした経済がうまく回らなくなります。

例えば『ぼくはお金を使わずに生きることにした』のいわゆる「フリーエコノミー」は、ネットを駆使することで可能になっている面は無視できません。非貨幣経済は評判経済/評価経済の面が強く(それは『フリー』でいう「21世紀型フリー」のもう一つの項目です)、その中で既存のローカルなコミュニティを超えて規模の拡大を図ろうとすれば、個々のプレイヤーは「パブリック」な存在になっていくことが最適解となっていくはずです。

逆に言えば、来るべき非貨幣経済というのは、決して「誰もが何でもタダで手に入れられる経済」のことではないでしょう。そうではなくて、個人にヒモづけられた情報なり評価なり信用という交換単位を貨幣の代わりに使うマーケット、ということだと思います。これまでなら閉じられた(ローカルな)空間だけで流通していた情報なり評価、信用というものが、パブリックな場で流通するようになる、そうしなければ経済圏が拡大しないということです。『パブリック』はその非貨幣経済圏での身の処し方を考えるヒントになるはずのもので、一番ビジネス色の薄い本に見えて、実は次の経済における交換単位(貨幣に代わるもの)について真っ向から語った経済書だ、とも言えるのだと思います。

そして、フリー/シェアを使ったビジネスと無料経済が相補的だと冒頭で述べたのは、恐らくこのパブリックな非貨幣経済圏こそが、ビジネスを駆動し、貨幣経済を潤すと思うからです。いわば新しい下部構造です(笑 フリー、シェアの先に何が続くのか? この問いの射程は案外長く、ただひとつの方向性があるわけでもないでしょう。時機を見てまた今後とも考えてみたいと思います。

おまけ:こんなブログポストもw
「現代のグレイトフルデッドは、岡田斗司夫」日刊カシハラ
http://anc.cocolog-nifty.com/next_stage/2012/01/post-44f5.html

JMMでの10余年、そして新たなフェーズへ

村上龍さんが編集長を務めるメールマガジンJMM(Japan Mail Media)にかかわって早11年余りになりますが、今年いっぱいで、いったん編集部から離れることにしました。よい機会なのでここに記録として書き留めておきたいと思います。遡ること2000年の7月に念願の書籍編集部へ異動となった時に配属されたのが当時のJMM編集班でした。これは前年1999年3月にスタートしたメールマガジンJMMの書籍化を担当する編集部で、既に『JMM』Vol.1〜7を刊行していて、僕はシリーズ8からの参画となったわけですが、出版社に入社して5年目にして、憧れの書籍編集と憧れの村上龍さんと仕事をする機会を両方いっぺんに得た形になりました。

当時の単行本『JMM』は毎号1テーマで編まれていて、金融・財政・通貨といったテーマに即して金融/経済専門家による座談会、村上龍さんと専門家との対談、そして毎週のメールマガジンJMMからテーマに関連するコンテンツを入れるという3部構成になっていました。座談会や対談、それに装丁やタイトルの相談のたびに新宿の村上さんの定宿にお邪魔し、そのお仕事ぶりを間近から見ることができたのは貴重で刺激的な体験でしたし、座談会などを通して多くの寄稿家の方々ともお付き合いが生まれました。

僕にとってJMMは日々の勉強の場で、毎週月曜日版の「金融・経済の専門家に聞く」は、本当に「生きた経済」の勉強になりました。10年間、世の中のナマの動きを素材に毎週行われる村上さんと寄稿家の方々のQ&Aは、どんな教科書よりもリアルでした。毎週それを精読する役割だったお陰で、普段だったら頭に入らなくて読み飛ばしたりそのまま受信フォルダに眠ったままになりがちな難しいお題でも、隅々まで、いろいろな方々の視点を学ぶことが出来ました。経済学の学部生レベルぐらいの勉強は出来た気がします(笑

また、寄稿家の方々自身が今ではメディアで常連となっている方々が多く、
山崎元さん(楽天証券):著書多数、連載「ダイヤモンド・オンライン」「現代ビジネス」など http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/
北野一さん(JPモルガン証券チーフストラテジスト):『なぜグローバリゼーションで豊かになれないのか
菊地正俊さん(メリルリンチ日本証券調査部チーフ株式ストラテジスト):『外国人投資家が日本株を買う条件 』(日経新書)
土居丈朗さん(慶應義塾大学経済学部教授):『地方債改革の経済学』(日本経済新聞出版社)が第50回日経・経済図書文化賞、第29回サントリー学芸賞を同時受賞 http://web.econ.keio.ac.jp/staff/tdoi/
真壁昭夫さん:日経CNBC、連載「ダイヤモンド・オンライン」など
といったようにさまざまな著書やメディアでお見かけするようになり、嬉しい限りでもあります。僕自身は、三ツ谷誠さんと作った『僕らの経済民主主義』がキャリア初期の傑作(怪作?)として思い出深いです。

また、JMMでは月曜日版以外にも世界中から日本人寄稿家による寄稿を連載していました。これは「日本のメディアでは報じられない」世界の多角的な見方を提示するという、まさにJMMの基本方針を地でいく連載だったわけですが、「日本のメディアに接していても分からない情報や文脈に触れる」という意味でも、「日本のメディアの文脈にとらわれないモノの見方」を養うという意味でも、それは自分の今の翻訳書編集者としての資質を(あるいは国際結婚をしたプライベートな部分も?)作り上げたと言っても過言ではありません。

今でも寄稿家の方々とはよくお付き合いせさせていただいていて、「from 911/USAレポート」の冷泉彰彦さん(Newsweek日本版でも連載をされている)はニュージャージのご自宅までお邪魔させていただいたり、ファンの多かった「オランダ・ハーグより」の春具さんの家に泊まらせていただいたこともありました(お二人とも奥様の手料理が絶品でした)。ソウルのアン・ヨンヒさんには別の仕事でソウルに撮影に行った時にすっかりコーディネーション他でお世話になったり、「ロンドン〜スクエア・マイルから」を連載されていた丸國葉さんとはロンドンで妻ぐるみで食事に行ったり、「大陸の風 現地メディアに見る中国社会」の北京のふるまいよしこさん(こちらも今ではNewsweekでも連載されてます)や「レバノン:揺れるモザイク社会」の安武塔馬さんとは日本に来られた時にはお食事をする機会に恵まれました。「平らな国デンマーク/子育ての現場から」の高田ケラー有子さんは、Facebook友だちでもあります。

JMMシリーズの単行本化自体はVol.13(2001年5月)で終わったものの、その後もひきつづきJMMのコンテンツを発展させる形で単行本を作りました。思い出深いのは『おじいさんは山へ金儲けに』(2001年8月、今は文庫版が幻冬舎さんから出ています)や『収縮する世界、閉塞する日本─POST SEPTEMBER ELEVENTH』(2001年12月)、坂本龍一氏のオペラ『LIFE』のなかの詩をもとにはまのゆかさんが絵をつけた『ポストマン〜MONOLOGUE OF THE DEAD LETTERS POSTMAN』(2003年6月)、村上さんと安藤忠雄/利根川進/カルロス・ゴーン/猪口邦子/中田英寿各氏との対談集『人生における成功者の定義と条件』(2004年8月)などでしょうか。

また2003年からは、メールマガジンの配信自体をこの9年間、お手伝いすることになりました。JMMはもともと(有)向現(当時)の栄花均さんが発足以来運営していたのですが、それをバトンタッチする形で、寄稿家とやりとりしながらその原稿をメルマガのフォーマットに落としこみ、配信サイトから日々配信するという内容で、日々の編集者としての業務に加えて、ボランティアベースで個人として始めることになりました。当時は月・火・木・金・土と配信日があって、加えて突発的な特別号の配信もあり、ほぼ24/7状態でした。海外旅行先でもとにかく「配信」があり、南国スペインのビーチホテルで電話回線でネットに繋げて配信作業をしていて、当時の彼女に呆れられる、といったこともしばしばでした。

メールマガジンというメディアは古いようで新しく、新しいようで古いといえます。10年前に無料でこれだけのクオリティのコンテンツを流すのは画期的だったと思うし、今では同じようなメルマガが有料になって、普通にコアな読者に受け入れられている現実があります(ふるまいさんのメルマガはこちら)。JMMについては社内でスポンサードの提案を出したりもしたのですが、まだまだ当時、メルマガの価値について正しく判断できる機能が既存出版社にはありませんでした。NHKの番組でも『NHKスペシャル村上龍“失われた10年”を問う』といった番組などがあったのですが(すっかり「20年」になってしまったのもまたそれで感慨深いのですが)、その後、このJMMの資産を正当に受け継いだのはテレビ東京の『カンブリア宮殿』でしょう。

JMMは同じようなフォーマットで12年ほど続けているわけですが、そろそろ新しいフォーマットで、それこそフリーミアムを使いつつ、マネタイズする時期に来ているのだと思います。2003年以降、安定したサーバと配信環境、それにスポンサード先などを探して点々としていた時期もあったJMMですが、ここ5年は、もともと村上さんとキューババンドのプロデュースなどで一緒にやられていた(株)Griotさんが運営を引き受けたことで運営も磐石となり、また最近はそのGriotさんから電子書籍制作会社のG2010が生まれて、今後のJMMとのシナジー効果も期待されます。JMMの有料化やプレミアム会員構想、それに合わせたコンテンツの再編集などは幾度も議題に上がっては消えていったのですが、昨今の状況を見ていると月額数百円でメルマガを読む、という習慣も徐々に拡がっています。有り体に言って、たとえば村上龍さんならば、毎月の文芸誌連載以上のギャランティもまったく非現実的ではないでしょう。そういった意味で、ついに機が熟してきたのかもしれません。

そんな変革の時に自分が携われないことは残念ですが、今後のフェーズは「ボランティアのお手伝い」的にかかわることは難しいわけで、逆に言えば、そのような「非営利体制」がこれまでJMMの進化を阻害していたのではないかという反省もありつつ、今後はフルコミットメントできるグリオさんはじめみなさんに期待しながら新たなステップアップを応援していきたいと思います。十年一昔と言うぐらいにJMMと関わった時間は長く、こうしてその任を降りるとまるで定年を迎えたおじさんのような気分にもなるのですが、これまで得てきた経験、それに寄稿家の方々とのつながりは一生モノだと思っています。これからは一歩引いたところから、いままでどおりに熱い視線を送り続けたいと思います。

あと偶然ですが山崎元さんもブログでJMMについて最近書かれていました。あわせて御覧ください。
評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」:「JMM」の中間決算

公共2.0 〜『一般意志2.0』と『パブリック』を接続する試み

奇しくも東浩紀氏の『一般意思2.0』と僕が編集したジェフ・ジャービス氏の『パブリック』という同時期に刊行された書籍がともに「公共」を主題に取り上げている。もちろん『一般意思2.0』は日本を代表する思想家が基本的に2009年からの連載をまとめたものだし、『パブリック』はアメリカのメディア/ITジャーナリストの本なので、刊行にいたるまでの文脈やバックグラウンドは相当に違う。

でも一方で、情報化社会の深化を前提に、カントからハーバーマスやアーレントへ連なる近代的理性に拠る「公共」をもはや「非現実的」としてルソーにまで遡る東氏のアプローチと、ハーバーマスを批判的に継承しつつ新しい「パブリック」の創出を論じるジャービスのアプローチには共通性があるし、『動物化するポストモダン』以降の00年代的アーキテクチャ論(と僕が勝手に命名)を牽引してきた東氏と「テクノロジー決定論者」を自称するジャービス氏の距離はそれほど遠くはないかも知れない。加えて本書で「夢を語ろうと思う」と公言する東氏と確信犯的楽観論を繰り出すジャービス氏のメンタリティもシンクロしている。

そこで、二つの異同を概観しながらそれを接続する試みをしてみたい。抽象的な概念を弄した雑な議論になってしまうが、その射程は今後5年、10年の(東氏に言わせれば50年の)変化を見通すものになるはずだ。まずは『一般意思2.0』。

東氏の議論は明快で、近代以降、理想とされているような熟議民主主義は機能していないし、今後テクノロジーが進展して、例えばソーシャル・ネットワークがすみずみまで人々をつなげたとしても、直接制民主主義が復活したりということはありえない、なぜなら「熟議」がその規模で機能しないから、というものだ。つまり、一見SNSが熟議を促進するように見えて、それは限られたクラスタ内の均一な能力なり見識を持つ人々に限られるのであり、参加コストが高く、大きな公共圏にはなりえないというわけだ。東氏はここから小さな公共たちの集合としての複数の「一般意志1.0」を導き出す。

一方で、情報テクノロジーが僕たちをどこに連れて行ってくれるかというと、ビッグデータの世界だ。それは例えばグーグルの世界であって、無意識の欲望や意志が検索語となって膨大に蓄積されていく。その巨大なデータをデータマイニングによって分析すれば、そこには人々の無意識の一般意志が立ち現れるはずだ。それはもっともプライベートな情報が形作る「無意識の公共圏」であり、その巨大データベース=「一般意志2.0」に駆動される民主主義は無意識民主主義と名付けられる。

来たる社会はこの両者(一般意志1.0と2.0)が交わるダイナミズムが生みだす民主主義2.0となるわけだが、「公共」という観点から見るとそこには面白い逆転が起きている。アーレントは私的/公的という区分を動物的/人間的と対応させつつ、パブリックになることで人間は初めて「人間」になると説いた。しかし民主主義2.0の社会においては、「私的で動物的な行動の集積こそが公的領域(データベース)を形作り、公的で人間的な行動(熟議)はもはや密室すなわち私的領域でしか成立しない」のだ(これをローティをひいて論じる部分はスリリングで面白い)。

これを『パブリック』の側から読むとどうなるのだろうか。僕には本書が民主主義2.0への変化の指南書のような位置づけにも思える。ジェフ・ジャービスはハーバーマスの公共圏(public sphere)と公共の領域(the publics)の位相を引き受けながら、ただひとつの公共圏よりも、多数の「僕たちの公共の領域」を擁護する。そしてネット時代に「バラバラの争点をもつ無数の公共の領域」に人々が移行することを憂えるハーバーマスを批判するのだ。これは明らかに、単独の公共圏における熟議民主主義の限界と「複数の一般意志1.0」を導きだす東氏と同じベクトルになる。

では一般意志2.0についてはどうだろうか? もちろん東氏のこのユニークな議論をそのままトレースするような記述は『パブリック』にはないし、パブリックを「コラボレーション」「市民による市民のためのツール」とするジェフ・ジャービスには「動物的データベース」という視点はない。一方で、ガバメント2.0的なビッグデータの活用についてページを割いているし、購買履歴をシェアするサービスBlippy(今ではレビューサイトになっている)のことを「スーパー・パブリック・カンパニー」として取り上げるなど、「人々の欲望を記録してデータベースをつくる」ことが新たな価値を生むことについてはむしろ過激な立場をとっているとも言えるかもしれない。

ジャービス氏の主張は明快で、「パブリックにすることのメリット/デメリットを考えた時に、そのメリットはデメリットを上回る」というものだ。生まれた直後からの診療記録がすべてまとめられてデータベース化され医療機関でシェアされるのは、「気持ち悪い」という人もいるかもしれないが「そんな便利なことはない」はずだ。自分の居場所をいちいちチェックインするのは「理解不能」かもしれないが、その集積からは新たなマーケティングや都市計画や需要が発見されるかもしれない。ツイッターのトレンドワードを追うことでインフルエンザの伝播経路や株価や映画の興行収益や選挙結果がかなりの確度で分かることはいまや有名だ。僕らがより多くのデータをシェアすれば、それがビッグデータとなって有用に使われる「可能性は高まる」。

そのために彼は「パブリックの守護者」を自任する。プライバシーの価値は充分に認めているし、プライバシーには守護者がたくさんいる。しかしパブリックの価値を守る人はいない。データベースが人間的であろうが動物的であろうが、そのデータをどうやって集めるのか? 僕らはどこまでデータを出す(意識/無意識によらず)べきなのかについて、「パブリック側」の守護者も必要だ、とうわけだ。プライバシー議論はますます盛んになり、無意識の一般意志が立ち現れるはずの巨大データベースの構築をあらゆる面で阻止しようとしている。東氏はある意味でリバタリアン的な市場主義によって無意識の欲望が自ずとデータベース化される社会を見ているが、現実にはビッグデータの活用は社会規範や法律や政治や慣習が複雑に絡まりあった茨の世界だからだ。

その議論の先には、やはり公的/私的の枠組みの変化がある。ジェフ・ジャービスはあくまでも「僕たちの公共領域」=一般意志1.0に可能性を見出しているけれど、そのために整備するべき「パブリック」のあり方は必然的に一般意志2.0を準備する。東氏は一般意志1.0を「mixi民主主義」、一般意志2.0を「グーグル民主主義」と対比させ、それらのダイナミズムから生まれる民主主義2.0を「ツイッター民主主義」と名付けている。ジャービスがパブリックのツールとして信頼を寄せるのもツイッターであり、東氏がニコ動をひきあいに説明したダイナミズムとまったく同じ議論をPodcastとTwitterを連動させる経験から描きだす。例えばジェフ・ジャービスのブログ「BuzzMachine」のポストにもあるような #OccupyWallStreet や #fuckyouwashington といったハッシュタグへのジャービスの信任は、明らかに意思の集積としての一般意志2.0の予兆を読み取っていると言えないだろうか。

『パブリック』の副題にある「開かれたネットの価値を最大化」するというのは、これまで私的な領域にあったものを公的領域に押し上げることで、新たな価値=一般意志が生まれてくる、という方向性としても読めるだろう。両著に共通するのは、ネットとテクノロジーによる新しい「公共」の誕生であり、それが従来の特権的な公共圏を解放したり民主化するというよりは、新たな回路による公共2.0的なものを創出しつつあって、今後社会はそれを前提とした調整、再編成が必要であるというメッセージだ。『パブリック』にはその現在進行形の議論が個人・企業・政府といった各プレイヤーの視点から描かれていて、『一般意志2.0』はその思想的グランド・デザインが描かれている、と言えるだろうか。2冊を続けて読むことで頭の中が刺激され整理されて面白い。

Steve Jobs / Walter Isaacson

 期待以上によかったです。なんとなくは彼の人生の物語を知っているつもりでいただけれど、やはり伝記でしっかり通して一人の傑物の人生を読むというのは贅沢な体験だなと思いました。

 彼の変人ぶりやものすごく「嫌な奴だった」エピソードのオンパレードがストーリー全体に花を添えているわけですが(笑、彼のアップルへの(偏)愛や、「明日は倒産」の瀬戸際から世界一の企業価値を持つまでに成長させたその「正史」もさることながら、若いころの生い立ちからドロップアウト〜インド放浪〜LSDときてデザインと技術を完全に一体化させたアップル哲学へと行き着くその精神の軌跡が非常に興味深く共感できました。「LSDを体験した人にしかわからない」というジョブズの発言にニヤニヤしてみたり──Think Different.

 ジョブズのend to endなアップルの製品哲学はクローズドなものとしてマイクロソフトの(そして今はGoogleの)オープン戦略と対置されるわけですが、それはビジネスモデルとしての議論であってジョブズの思想を適切に表しているとは思えないのは、彼のデザインした製品はすべて、人を「自由に」するためのものだったから。パーソナルコンピュータは、それまで資本や権力の象徴であったコンピュータを「人民のコンピュータ」として「僕らの側」のツールにする歴史的な一歩だったわけです。

 そしてそこで大事なのが、ハードやソフトについて何も考えさせない「統合美」という思想です(それがクローズドだとして時に非難されるわけですが)。ハードウェアを究極の直感的インターフェイスにして人間とソフトをいかにダイレクトに、シームレスに、あるいは想像力を刺激する形で繋げるか、つまり『そのデバイスでどんなクリエイティヴなことができるのか』こそが、ジョブズにとって大切だったわけで、そのことはいくら強調しすぎても足りません。そこが彼の原点だし、そういった製品を追い求めてここまで走ってきたのだと、本書を読んで改めて確信しました。

 というのも、パソコンってスペックやら商品やらに拘泥する、いわばハードおたくやソフト比較マニアとか多いですよね。僕は昔からそうしたフェティッシュな気質がまったくないので最初からMac使いだったのですが、Macの世界でもやはりそういう人がいて、思わず「ところであなたはそのMacでいったい何を創りたいの?」と訊きたくなることが昔はよくありました。ちょうど今で言えば、「ソーシャル、ソーシャル」って言っているけれど、いったい「あなた」はそれで何がやりたいの? というのと同じです。今はコンピュータについていちいちスペックを語り合うといったことがなくなって本当に住みやすい世の中になったな、と思うわけですが、ジョブズが目指していたのはもともとそういう世界だと思うのです。テクノロジーにあなたが迎合したり拘泥したり困惑したりするのではなくて、テクノロジーが自然にあなたの創造性を刺激し拡張する世界。それを実現したのがアップルでした。

 ジョブズは、まぁ付き合うには難しい人物だったのでしょうが、一方で人の(そして自分の)クリエイティビティというものを、あるいは誰もがクリエティブで在りたいと思っていて、それが人間の根源的な喜びなのだということを、ナイーブなほどに心底信じていたんだなぁと改めて感じました。それはAppstoreの「検閲」問題のハイ・サブカルチャーとでも言う志向にも見られるわけですが、あれもその源流はクローズドとかコントロールということではなくて、クリエイティビティ志向と表裏でしかないわけで、そういう意味では音楽とか映像といった、どちらかといえば近代の「コンテンツ」を愚直に解放してきたアップルが、今後のネットワーク時代において「関係性」が「コンテンツ」を覆ったときに、それをどう有機的に繋げていくのか、あるいはそれは歴史的にまた次のプレーヤーの役割なのか、20世紀を背負ったジョブズのこの10年の軌跡を思う時に、その先を思わずにはいられないわけです。

 その精神の軌跡に大きな影響を与えたであろう禅との関わり(京都をプライベートで度々訪れていたらしいですね)については本書ではあまり書きこまれていなかったので、次は『The Zen of Steve Jobs』というコミックを注文してみました。年明け発売みたいですね。

スティーブ・ジョブズのいない世界

同時代を生きてぼくの人生に少なからぬ影響を与えた歴史的人物として、スティーブ・ジョブズについて僕なりに記しておきたい。いちばん凡庸な書き出しで始めるとすれば、ぼくがアップル社の製品を初めて使ったのはMacintosh LC630を買った22歳の時だ。1994年、大学4年生で、初めて買ったパソコンだった。以来、ぼくはアップル製品しか使っていない。

当時のアップルは「明日にでも潰れる」と言われていた。小さい頃からコンピュータ・ギークだった兄から、「なんでよりによってMacなんて将来性のないもの買ったの?」と言われた。何よりも、スティーブ・ジョブズがアップルにいなかった(だからぼくは、スティーブ・ジョブズのいないアップルから始まって、いま再びジョブズのいない時代に戻るわけだ)。LC630を久しぶりに検索して見てみると、その筐体の凡庸さに、あのデザイン・コンシャスなアップルの製品なのかと目を疑いたくなるはずだ。

でも、そんなことは関係なかった。WYSIWYG(ウィジウィグ)に象徴される、「直感的で感覚的な操作」が可能だ、ということだけでぼくには決定的だった。兄貴のパソコンのような「敷居の高さ」がそこには一切なかった。「直感的で感覚的」──それこそがぼくにとってMacの真髄だったのだ。そのことはいまだにまったく変わっていない。

それは「人民のコンピュータ」という、スティーブ・ジョブズとウォズニアックという二人のスティーブがアップルを立ち上げた、その最初の原点から現在まで、ずっと続くDNAそのものだ。「人民のコンピュータ」とは、60年代から70年代にかけて、カウンターカルチャーを受け継ぐ形で唱えられた。ぼくたち一人ひとりがパーソナルコンピュータを持つことで「empowered」され、非対称的な力関係にあった「権力」から、その力を僕ら一人ひとりの手に(それをパブリックと呼んでもいいと思う)取り戻すことだった。その意志は、1984年のMac誕生、そしてIBM=ビッグブラザーを向こうに回した「あの」広告に集約されている。

「1968年の政治学」というテーマのゼミを選び、ヒッピーとカウンター・カルチャーと政治学を学んでいたぼくは、『Digital Love & Peace』というタイトルで(当時の『STUDIO VOICE』の特集名を拝借した)、カウンターカルチャーとMacの系譜学について卒論を書いた。『マッキントッシュ・ハイ』が刊行される前の話だ。そのことは、今SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERSさんで行われているプロジェクト「SHARE THE BOOK」でも書いている。本当に、Macをもつことが「自由に近づく」ことだったのだ。技術的にも、精神的にも。僕の大学の思い出だ。

ぼくにとって、その後のアップルは(ジョブズが復帰した1997年以降も)、その理想の実現の過程という位置づけだった。それは、“Think Different.”キャンペーンを見れば分かる。僕は今も昔も、スティーブ・ジョブズという人物そのものに特別に傾倒してきたわけではなかった。面識もなければ、特別に彼のことを知っているわけでもない。だから彼をことさら神格化することもないし、経営的なアップルの成功にことさら価値を置くわけでもない。ただ、彼のイノベーターとしての存在を高くリスペクトするし、何よりアップルの揺籃したDNAにこそ惚れてきたのだと思う。「世界は変えられる」という理想に。

その理想はまさに今、2010年代において、ますます実現しつつある。だから、1976年に設立されたアップルは、35年を経てそのDNAの出現をいま見ているはずだ。そして同時に思うのは、その出現した理想の世界は必ずしもアップル的ではないということ。ソーシャルメディア革命によってオープンでパブリックな個々人の多様性の集積としての社会が出来上がりつつある現在、あるいは「アラブの春」のようにまさにテクノロジーとデモクラシーが結合して「世の中を変え」つつある現在、超秘密主義で父権的でカリスマ経営の権化であるアップルは、その対極にいる存在だ。

ジョブズが世の中を変えたのは間違いない。それについては、世界中の無数の人々が口を揃えて言っているはずだから敢えてここで述べる必要もない。言うなればジョブズは、「スティーブ・ジョブズのいない世界」でもぼくらが生きていけるようなレベルまで、ぼくらを連れて来てくれたのだ。つまり、世界を変えてくれた。そして彼が去った今、残されたぼくたちが目指すべきは、きっと「ジョブズがいない世界」を積極的に肯定することなのだと思う。カリスマのイノベーターが創り上げる、心地よい一方通行の美的世界ではなくて、凡庸でも開かれた「ぼくたちの」世界で生きていくこと。今のアップルや亡くなったジョブズというアイコンにとらわれないこと。そして、世界を変えていくこと。それがきっと、ジョブズが目指した世界のはずだ。だって、ジョブズの代わりなどいないのだし、そのDNAはずっと引き継がれるのだから。