公共2.0 〜『一般意志2.0』と『パブリック』を接続する試み

奇しくも東浩紀氏の『一般意思2.0』と僕が編集したジェフ・ジャービス氏の『パブリック』という同時期に刊行された書籍がともに「公共」を主題に取り上げている。もちろん『一般意思2.0』は日本を代表する思想家が基本的に2009年からの連載をまとめたものだし、『パブリック』はアメリカのメディア/ITジャーナリストの本なので、刊行にいたるまでの文脈やバックグラウンドは相当に違う。

でも一方で、情報化社会の深化を前提に、カントからハーバーマスやアーレントへ連なる近代的理性に拠る「公共」をもはや「非現実的」としてルソーにまで遡る東氏のアプローチと、ハーバーマスを批判的に継承しつつ新しい「パブリック」の創出を論じるジャービスのアプローチには共通性があるし、『動物化するポストモダン』以降の00年代的アーキテクチャ論(と僕が勝手に命名)を牽引してきた東氏と「テクノロジー決定論者」を自称するジャービス氏の距離はそれほど遠くはないかも知れない。加えて本書で「夢を語ろうと思う」と公言する東氏と確信犯的楽観論を繰り出すジャービス氏のメンタリティもシンクロしている。

そこで、二つの異同を概観しながらそれを接続する試みをしてみたい。抽象的な概念を弄した雑な議論になってしまうが、その射程は今後5年、10年の(東氏に言わせれば50年の)変化を見通すものになるはずだ。まずは『一般意思2.0』。

東氏の議論は明快で、近代以降、理想とされているような熟議民主主義は機能していないし、今後テクノロジーが進展して、例えばソーシャル・ネットワークがすみずみまで人々をつなげたとしても、直接制民主主義が復活したりということはありえない、なぜなら「熟議」がその規模で機能しないから、というものだ。つまり、一見SNSが熟議を促進するように見えて、それは限られたクラスタ内の均一な能力なり見識を持つ人々に限られるのであり、参加コストが高く、大きな公共圏にはなりえないというわけだ。東氏はここから小さな公共たちの集合としての複数の「一般意志1.0」を導き出す。

一方で、情報テクノロジーが僕たちをどこに連れて行ってくれるかというと、ビッグデータの世界だ。それは例えばグーグルの世界であって、無意識の欲望や意志が検索語となって膨大に蓄積されていく。その巨大なデータをデータマイニングによって分析すれば、そこには人々の無意識の一般意志が立ち現れるはずだ。それはもっともプライベートな情報が形作る「無意識の公共圏」であり、その巨大データベース=「一般意志2.0」に駆動される民主主義は無意識民主主義と名付けられる。

来たる社会はこの両者(一般意志1.0と2.0)が交わるダイナミズムが生みだす民主主義2.0となるわけだが、「公共」という観点から見るとそこには面白い逆転が起きている。アーレントは私的/公的という区分を動物的/人間的と対応させつつ、パブリックになることで人間は初めて「人間」になると説いた。しかし民主主義2.0の社会においては、「私的で動物的な行動の集積こそが公的領域(データベース)を形作り、公的で人間的な行動(熟議)はもはや密室すなわち私的領域でしか成立しない」のだ(これをローティをひいて論じる部分はスリリングで面白い)。

これを『パブリック』の側から読むとどうなるのだろうか。僕には本書が民主主義2.0への変化の指南書のような位置づけにも思える。ジェフ・ジャービスはハーバーマスの公共圏(public sphere)と公共の領域(the publics)の位相を引き受けながら、ただひとつの公共圏よりも、多数の「僕たちの公共の領域」を擁護する。そしてネット時代に「バラバラの争点をもつ無数の公共の領域」に人々が移行することを憂えるハーバーマスを批判するのだ。これは明らかに、単独の公共圏における熟議民主主義の限界と「複数の一般意志1.0」を導きだす東氏と同じベクトルになる。

では一般意志2.0についてはどうだろうか? もちろん東氏のこのユニークな議論をそのままトレースするような記述は『パブリック』にはないし、パブリックを「コラボレーション」「市民による市民のためのツール」とするジェフ・ジャービスには「動物的データベース」という視点はない。一方で、ガバメント2.0的なビッグデータの活用についてページを割いているし、購買履歴をシェアするサービスBlippy(今ではレビューサイトになっている)のことを「スーパー・パブリック・カンパニー」として取り上げるなど、「人々の欲望を記録してデータベースをつくる」ことが新たな価値を生むことについてはむしろ過激な立場をとっているとも言えるかもしれない。

ジャービス氏の主張は明快で、「パブリックにすることのメリット/デメリットを考えた時に、そのメリットはデメリットを上回る」というものだ。生まれた直後からの診療記録がすべてまとめられてデータベース化され医療機関でシェアされるのは、「気持ち悪い」という人もいるかもしれないが「そんな便利なことはない」はずだ。自分の居場所をいちいちチェックインするのは「理解不能」かもしれないが、その集積からは新たなマーケティングや都市計画や需要が発見されるかもしれない。ツイッターのトレンドワードを追うことでインフルエンザの伝播経路や株価や映画の興行収益や選挙結果がかなりの確度で分かることはいまや有名だ。僕らがより多くのデータをシェアすれば、それがビッグデータとなって有用に使われる「可能性は高まる」。

そのために彼は「パブリックの守護者」を自任する。プライバシーの価値は充分に認めているし、プライバシーには守護者がたくさんいる。しかしパブリックの価値を守る人はいない。データベースが人間的であろうが動物的であろうが、そのデータをどうやって集めるのか? 僕らはどこまでデータを出す(意識/無意識によらず)べきなのかについて、「パブリック側」の守護者も必要だ、とうわけだ。プライバシー議論はますます盛んになり、無意識の一般意志が立ち現れるはずの巨大データベースの構築をあらゆる面で阻止しようとしている。東氏はある意味でリバタリアン的な市場主義によって無意識の欲望が自ずとデータベース化される社会を見ているが、現実にはビッグデータの活用は社会規範や法律や政治や慣習が複雑に絡まりあった茨の世界だからだ。

その議論の先には、やはり公的/私的の枠組みの変化がある。ジェフ・ジャービスはあくまでも「僕たちの公共領域」=一般意志1.0に可能性を見出しているけれど、そのために整備するべき「パブリック」のあり方は必然的に一般意志2.0を準備する。東氏は一般意志1.0を「mixi民主主義」、一般意志2.0を「グーグル民主主義」と対比させ、それらのダイナミズムから生まれる民主主義2.0を「ツイッター民主主義」と名付けている。ジャービスがパブリックのツールとして信頼を寄せるのもツイッターであり、東氏がニコ動をひきあいに説明したダイナミズムとまったく同じ議論をPodcastとTwitterを連動させる経験から描きだす。例えばジェフ・ジャービスのブログ「BuzzMachine」のポストにもあるような #OccupyWallStreet や #fuckyouwashington といったハッシュタグへのジャービスの信任は、明らかに意思の集積としての一般意志2.0の予兆を読み取っていると言えないだろうか。

『パブリック』の副題にある「開かれたネットの価値を最大化」するというのは、これまで私的な領域にあったものを公的領域に押し上げることで、新たな価値=一般意志が生まれてくる、という方向性としても読めるだろう。両著に共通するのは、ネットとテクノロジーによる新しい「公共」の誕生であり、それが従来の特権的な公共圏を解放したり民主化するというよりは、新たな回路による公共2.0的なものを創出しつつあって、今後社会はそれを前提とした調整、再編成が必要であるというメッセージだ。『パブリック』にはその現在進行形の議論が個人・企業・政府といった各プレイヤーの視点から描かれていて、『一般意志2.0』はその思想的グランド・デザインが描かれている、と言えるだろうか。2冊を続けて読むことで頭の中が刺激され整理されて面白い。

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