田中功起|オープンゼミ

 ゲスト講師となった田中功起さんを見に行く。管啓次郎さんマリオさん経由で知ったこのオープンゼミ。正式には明治大学理工学部新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系管啓次郎研究室オープンゼミ@明治大学秋葉原サテライトキャンパス。田中功起の作品は直接見たことはなくて「なんとなく知っている」程度だったのだけれど、その経歴やインスタレーションそのものへの興味もあって参加してみることに。何しろ作家本人が目の前で2時間も作品解説をしてくれてしかも無料なのだ。大学とは(というより管さんが、だ)なんと素晴らしいところなのだろう。
 田中功起の作品は容易に言語化できるものではないけれど、その核となる部分は今回のゼミで驚くほど明解にされていたと思う。それはアーティストという以前の、「行為者」そのものを剥き出しにしていく作業であって、あるいは彼の説明でもあったけれども、「行為」が生まれるその瞬間、確かに行為がなされてしかしまだ意味づけされていないような、古い言い回しで言えば浮遊するシニフィアンのような、その瞬間を剥き出しにしていく作業に思える。特にゼミのタイトルにもなっていた「everything is everything」という作品。そこには日用品(ダイソーやキャンドゥーで手当たり次第に購入した)に対しいかに日常とズラした行為(投げる、置く、突く、倒す……)を加えられるか、という単純かつプリミティヴ、そして限りなく非日常の行為が延々と続く。「とにかく思いついたことを、その場でみんなでどんどん試したみた」というそのコメントは、田中功起の作品全体を貫く通奏低音であり、その行為が生まれる瞬間を見せられるからスリリングなのだ。だからといって、偶然性だとか、不条理だとか、そんな意味づけは一切当てはまらない。あるいは必要ない。逆にそのプレゼンの仕方自体はもの凄く計算されている。そこが行為者パフォーマー/アーティストをつなぐ、あるいはビデオアートとインスタレーションをつなぐ田中功起のスタイルなのだと思う。

 質疑応答で印象的だったのは、「何かメッセージは含まれていないのか」という質問への答え。要するに「ない」のだけれど(「行為」と「意味」の間に位置する、普段は意識しない「世界のレイヤー」を加える作業だから、という説明をしていた。管先生はそれは詩という行為に似ている、と言っていた)、逆に欧米に行くといつもその質問をされるという。つまり、海外には political art しかないのだと(この質問をしたのも欧米系の留学生だった)。どんなアートでも、メッセージがあって、それを表現する手段としてのアートという位置づけになっている(だからマリオさんがロンドンの街角でライブ・ドローイングのパフォーマンスをしているとすかさず「これはフリー・チベットか?」という質問が来るのだろう」)、というのはたしかに「近代的」であって、これまた古い言い回しだけれども、ポスト(or プレ)モダンに突き抜けている日本の文脈はすでにそこから完全に自由になっている、その日本の「先行性」のようなものを再認識させられた。
 ちなみに田中功起さんはとても「しゃべれる」人で、しっかりとアートを言語化していくので講義は作品もトークもとても楽しめた。彼自身にもその自覚があるのだろう。podcastでトークの発信もしている。こんどご自身のギャラリー青山|目黒でも展示があるらしいのでこっちも行ってみたい。

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