Blindness ブラインドネス:試写会


 今年5月のカンヌのオープニング作品に選ばれ、11月から全国で公開される「Blindness」の試写会へ。原作はポルトガルのノーベル文学賞作家であるジョゼ・サラマーゴの『白の闇』。『シティ・オブ・ゴッド』『ナイロビの蜂』のフェルナンド・メイレレスが監督というから間違いなく期待作と言える。

 内容は「ある男が、突然失明した。それは原因不明のまま次々と周囲に伝染していった。事態を重く見た政府は、感染患者を隔離しはじめる。介助者のいない収容所のなかで人々は秩序を失い、やがて汚辱の世界にまみれていく。しかし、そこにはたったひとりだけ目が見える女性が紛れ込んでいた……」というもので、世界でただ一人、目が見える主人公の女性をジュリアン・ムーア(『めぐりあう時間たち』以来大好きだ)、最初に失明する男とその妻をそれぞれ伊勢谷友介木村佳乃が演じている。

 「全世界、失明」という舞台設定は秀逸で、いったいどんな思考実験がなされるのか、それをどう映像化するのかとても興味があった。隔離病棟に押し込められる感染者たちの極限の姿は確かに壮絶で、ところどころ嫌悪感を覚えるぐらいにむごたらしい。それでもこれが「物語」となっているのは、けっきょく隔離病棟が3室のコロニーに分かれ、それぞれの(実際には第一病室と第三病室)集団としてのアイデンティティが民族や国家を表徴し、けっきょくは善と悪の役割をきれいに回収し過ぎているからだと思う。例えば第三病室は王を擁した君主制を宣言し、病棟全体の食糧ライフラインを独占して他の病室の服従(金品・女の供出)を強いる。いっぽう第一病室はリーダーを中心に民主的コミュニティが形成される。これなどまさに国家のアナロジーなわけだけれど、そこには実際の意味での人間同士の相克は巧妙にネグられていないだろうか。例えば一方が「見える」人間で他方が「見えない」場合に、もし「見える」側が他方の財産や性を蹂躙したとすれば、それは凡庸かつ最大の嫌悪を覚える救いのない姿として提示される。でも僕がうっすらと期待していたのは、お互いが「見えない」場合に、でも「見えない他者」としての相手とどのような関係性を築くのか、ということだった。そこにはやはり「収奪する者とされる者」が生まれるのか、「君臨する者と服従する者」が生まれるのか、相手の外見をネグった「人格」のようなものが、よりピュアに屹立してくる世界がそこに広がるのではないか、というようなものだった。そうしたものは映画では後景へとまわり(きっと原作ではもっと濃密に描かれているのではないかと思う)、国家同士の争いと、国家と個人との間のせめぎ合いがより描かれる。でも、例えば「目が見える」人びとが同じ境遇に合っても、同じような第一病室と第三病室は生まれないだろうか。

 でもその理由はもうひとつあって、それはジュリアン・ムーア演ずる唯一「見える」人間の存在だ。それは明確に「神」のアナロジーであり、また観客をその立場へと自然に誘う装置として機能しているのだけど、物語全体が、第一病室と第三病室という善と悪、そのはざまに留まろうとしながらどうしようもなく超越論的視点を持ってしまうジュリアン・ムーアという神、という三角構造にすべてをきれいにまとめてしまう。けっきょく、善悪の抗争を終結させるのも、隔離病棟からの脱出(まるでモーゼのように)も、すべては神によって誘われる。人間でありながら神である、というジレンマとどう彼女は折り合いをつけるのか、というのがもう一方の軸となるのだが、キリスト教的なこのジレンマもなかなか僕には読み取りづらかったのが残念だった。「救い」の提示される最後に比して、見終わってもズンと残る映画。原作を読んでから観るべきだった。そうすれば「思考実験」のディティールについては頭の中で反芻しながら、映像としてさらに楽しめたのだと思う。

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