VERNACULAR/いま ここにある風景

 京橋に写真展と映画試写に行く。写真展は石川直樹さん「VERNACULAR 世界の片隅から」で、INAXギャラリーにて。ヴァナキュラーとは建築用語では「風土、地域性、土着性、あるいは土地固有の建築様式などを示す名詞および形容詞」で、もともと南仏レ・ゼジーに古代の壁画の撮影に出かけた石川さんが、偶然、自然の大壁面に寄り添うように建つ家(室内の一部が壁面そのものになっている)を見つけたところから始まった企画。そこからヴァナキュラーという言葉で白川郷やカナダ北極圏(イヌビック、タクトヤクタック)、エチオピアやベナン共和国のヴァナキュラー建築を同時的に見せていく企画だ。もちろん、まったくもって違う様式を並列にすることで、かえってVERNACULAR性というものを浮かび上がらせることに成功している。写真集を編んでいるということで楽しみだ。
 午後は写真家エドワード・バーティンスキーを追ったドキュメンタリー「いま ここにある風景」の試写会。ムヴィオラの武井さんからぜひにと誘われたのだけれど、ひと目、彼の写真を見たときから、絶対に観に行きたいと思っていた。人類の発展、すなわち産業によって極端に変化した風景を撮り続けるシリーズ「マニュファクチャード・ランドスケープ」で国際的に有名なエドワード・バーティンスキー。今回は中国のそんな風景を追いかける姿をドキュメンタリーの形で見せている。巨大なアイロン工場(工場の端から端まで8分間(!)の長回しで見せるところから映画は始まる)から山峡ダム、造船所、石油採掘所……。人々は自然を加工し、削り、穴を開けていく。あるいは産廃をまき散らし、工場を建て、ダムを造る。風景は一変していくわけだけれど、それが中国となるとスケールがまったく違う。そして、エドワード・バーティンスキー氏のレンズを通したそれは、限りなくアートとして存在するのだ。彼はこうした所謂「自然破壊と経済発展」について、価値判断をしない。「富める国になるために」「先進国がやってきたことをやっているだけ」という理論を前にして、僕たちは無力感を噛み締めるだろう。だから価値判断の代わりに、それをアートとして提示する。地球が加工されていく姿が神々しいまでの美として提示されるとき、僕たちは人間が地球に対してどう関わっているのかを、審美的な啓示のように体感することができる。ものすごく根源的で肌感覚の啓示だ。
 人々は自然や地球を加工しながらもうまく共存してヴァナキュラー建築を何千年もかけて作り上げてきた。そしてこの100年あまり、それはあまりにも巨大なスケールへと変貌している。ヴァナキュラーと巨大ダムは別のものではない。それは連続していながら、ひどく違うパースペクティヴを僕らに突きつけるのだ。

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