モディリアーニあるいは『邪魅の雫』

 京極夏彦の新刊が出ると、僕はいつも喜びと憂鬱がない交ぜとなった微妙な感情を抱く。もちろん新しい作品が読めて嬉しいのだが、それ以外のものに手をつけられなくなってしまうのだ。先月末に出た『邪魅の雫』は新書版で2段組800ページ超。最近はミステリーは全く読まないのに、この京極夏彦の講談社ノベルス・シリーズだけは欠かさず読んでいる。『姑獲鳥の夏』が1994年だから、かれこれ10年以上、シリーズ第9弾となる。
 で、何も予定がない休日の一日をのんびりと読書に当てる。歩いて五分の東京都庭園美術館に行ってお昼を金田中のcafe茶酒でとり、そのまま庭園で読書をするのは僕の中のお気に入りコース。ここの庭は公園というよりやはり「庭園」で、目黒通りと首都高2号に挟まれて車の音が途切れないのに、なぜか100年ぐらいタイムスリップしたような落ち着いた趣がある。今、美術館では「アール・デコ・ジュエリー」の展示をやっているけれども、僕は今日はどっぷりと妖怪と付き合うのでスルー。庭園だけなら入場料200円也。
 『邪魅の雫』も変わらぬ京極ワールドだ。蜘蛛の巣のように緻密に編み込まれたストーリー世界と、繊細な心の機微に分け入るような人物描写。そして何よりも京極堂の「憑き物落とし」が与えるカタルシス。妖怪を扱いながらその妖怪とは結局はその人の心に巣くうものであるという、その現象学的、唯心論的アプローチで、僕は何故か昨日渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで観た「ピカソとモディリアーニの時代」の絵画の数々が頭から離れなかった。
 もちろん僕がこの『邪魅の雫』とリール近代美術館の絵画を連続して体感したのは偶々だけれども、二つの世界が簡単にシンクロするのは、例えば今回の京極堂シリーズでも言及される柳田民俗学の誕生とエコール・ド・パリの誕生が同時期であることとも無縁ではない。民俗・伝承・口伝といった非歴史的なものを初めて学問として定着させた柳田国男。そして写実主義(正史)の極地である印象派を越えて自らの「妖怪」をキャンバスの上に表現したのが、ピカソやブラックのキュービズムであり、ミロやクレーの抽象派であり、エコール・ド・パリの絵画だった、とも言えるのかもしれない。人間の心が作り出す世界認識。人間の心が作り出す魑魅魍魎。その自ら作り出した妖怪を「これは自分で作り出した世界の表現である」と正しく認識出来たときに憑き物が落ちるのだとすれば、両者はまさに「憑き物落とし」として機能したのではないだろうか。
 『邪魅の雫』は京極堂の「憑き物落とし」も良かったし(『塗仏の宴』のような強引さがなかった)、謎解きのプロットもよく編まれていて(『絡新婦の理』や『陰摩羅鬼の瑕』のように最初から分かって興ざめということもない)よく楽しめた。普段はどちらかというと漫画寄りにイメージされるキャラクター達が、今回はモディリアーニの描く、現実に即しているようで決定的に異質な肖像画の数々(いくら見ても白目と色目の区別がないのだ)とダブり、それが誰の心の中にもある妖怪のように、思えるのだった。
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