A・ネグリ vs 加藤哲郎

 土曜日の17時、日仏学院にアントニオ・ネグリと恩師・加藤哲郎教授のネット対談を聞きに行く。JMM寄稿家だった大中さんが企画したらしく(彼は今は加藤先生のところに身を寄せていて、市ヶ谷に住処を構え、なので恐らく日仏学院にも相当顔が効くのだろう)、そんなわけで、僕にとっては豪華この上ない顔合わせの対談だった。
 フランス現地からネット中継されるネグリは好々爺で、話はイタリア生まれのネグリのマルクス主義体験から始まって、核心である「マルチチュード」という概念へと迫っていく。プロレタリアートでも階級でもないマルチチュードとはつまり、プロレタリアから離脱し高度化した労働主体が内在的に抱く余剰の可能性のようなものだろうと理解した。ネグリは、マルクスが『資本論』を書いた当時、実際にプロレタリアと呼べる人々は数万人規模にすぎなかったのと同様に、現在もすべての労働者がマルチチュードを形成しているわけではなく(つまりは階級として明確に存在するものではなく)、それはやはり未だ数万人規模にすぎないかもしれない、その可能性の概念であると言っていたのが印象的だった。彼の中では、反グローバリゼーションのアクションを起こす層(サミットに対してデモを起こすような)として提示していることが窺えたが、僕には、その可能性ならばより広い層に潜在的に見いだせるのではないか、と思った。
 ただ、そうしたマルチチュードという可能性が、現在の高度資本主義社会の中では、逆に資本に巧妙に取り込まれる可能性はないだろうか。そうした「過剰なもの」こそを、資本はその血肉としていくのではないだろうか。それを回避するためには、やはり指向性が必要なのだろうか。それは必然的に政治性を帯びるのだろうか。だとすればそれはイデオロギーとどのように違うのだろうか。そこに反グローバリズムを唱える左翼の限界性は垣間見られないだろうか。そんなことを考えながら、半分ぐらいしか理解できなかった対談会場を後にする。
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