嗤う日本の「ナショナリズム」(長文)

 北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読了。僕とは年齢が一つ違いで東浩紀と同い年の著者については気になっていたもののいままでまとまった著作を読んだことがなかったので楽しみに読む。「国家、純愛、電車男 ……かれらはなぜハマるのか?」という帯コピーから想像するような現代若者論というだけではなく、日本の70年代初頭からの「アイロニカル」な感性の変容を追いながら、現代の奇妙なナショナリズムへと繋がる文脈を解明する意欲作と言えるだろう。僕などは、現代のメンタリティを理解する見取り図が非常に分かりやすくなったと感じる。
 70年代(つまりは物心の付かない時代、あるいはまだ生まれていない時代)に現在の根を見据える感覚は、同世代として奇妙に一致するところに驚く。大塚英志の『「彼女」たちの連合赤軍』などを参照しながら論を進める考察は、僕の思考形成の軌跡と不思議と一致して、60年代的なものにこだわらざる得ない、ティモシー・リアリーとニューレフトと「自己否定」に吸い寄せられていく僕たちの世代の感覚かもしれない。
 90年代以降の「蛸壺化したアイロニーゲーム」については肌感覚で分かるものがあるが、僕には70年代から続く「反省」の変容としてそれがつながっていくパースペクティブを持っていなかった。とりわけ、80年代の消費社会全盛のとらえ方がかなりネガティヴであったからなのだが、「バブル世代」への軽蔑や、『消費社会の神話と構造』の理解に根ざした記号論の戯れとしてあった80年代を、糸井重里の戦略から見直す箇所は面白く読めた。
 それは「抵抗としての無反省」と規定された戦略で、60年代的なイデオロギーの絶対化のもとでの反省(内面のゾンビ化)から距離を取るための、メタレベルをいったん括弧に入れることでベタと戯れてみせるユーモアの戦略であり、消費社会的アイロニズムへと繋がっていく。そこで興味深いことに、その過程で「センス・エリーティズム」と「オタク化」の二方向の流れが同じ戦略から生まれたというところだ。一概に区別はできないが、振り返ってみれば確かにそれは、あった。結果的に僕は前者を、兄が後者を歩んだという意味で、ものすごく卑近な例としてそれが分かるのも、同世代著者の記述だからだろうか。
 そうして「抵抗としての無反省」という糸井の戦略はしかし、ただの「無反省」へと横滑りしていく。あくまで括弧にいれることで抵抗を示していた「価値の相対化」、ユーモアとしてのアイロニーは、それ自身を自己目的化した「アイロニーゲーム」へと転化していくのだ。オタクたちのコミケ、制度としての差異との戯れ、自己言及的なループをまわるテレビ。そこから90年代の<繋がり>の社会性、超越者なき共感の無限継続としてのアイロニーゲームまではそう遠くない。すでにアイロニーを示す「超越者」をも失効させてしまったあとに来るシニシズムにおいて、自らの実存を希求する人たちが持ち出してくるものは、「純愛」だったり「ナショナリズム」だったりするのは、そう無茶な話ではないだろう。
 ただ、そこで持ち出される「純愛」や「ナショナリズム」は決して括弧なしの純愛やナショナリズムとは違うと著者は言う。ロマン主義的シニシズムにおいて要請されるのは、あくまでも自分の実存を他の人との関係性の中で担保してくれる<繋がり>の手段としてのロマンであり、それ自体が何であってもよいのだ。アイロニーゲームの中で、「純愛」や「ナショナリズム」は格好の餌ではないか。。。
 こう書いていて思うのだが、2ちゃんねるのコミュニティについては著者の言うとおりさまざな距離の取り方や評価のしかたがあるだろうが、「反朝日」「反市民運動」「反韓・反中」というのは、明確に一つの「仮想敵」を作っているという意味では、超越的存在の仮構のもとにアイロニーゲームを楽しむ構造はそう変わっているわけではないように思う。「反・イラク人質事件」でありながら「反・拉致家族会」であるから左右どちらかに限定できるわけではないという論拠は、「反・反権力の権力」という視点から見れば一貫しているし、「分かっていてやっている」「ポーズ」「嘘を嘘として楽しむ」そのルールによって、「本気のナショナリズム」とは違うという論については、ではそもそも「本気のナショナリズム」とは何なのかと問わずにはいられない。
 「経済格差が深刻化し、鬱積した不満が、主に若者を中心としてナショナリズムとして噴き出している」というのは、今回の一連の中国の反日デモで常套句として使われるものだが、これを2ちゃんねるの現象にそのまま当てはめてどのぐらい違いがあるだろうか? そのときに、本書のようにロラン・バルトの『表徴の帝国』をもちだして日本のスノッブさをエクスキューズにして良いのだろうか? あるいは「偽悪」を「偽悪だから」としてエクスキューズにしてよいのだろうか? これは「動物化」を提示する東にも言えることだが、そうした「スノッブな」解釈が覆い隠すものがないだろうか? スノッブなアイロニーとベタな欲求が共存するときに、その強度は無視できないものではないだろうか? 同時代体験に根ざしながら、2ちゃんねらー(北田)にもオタク(東)にもなれなかった僕は、そんな疑問というか消化されない違和感を抱いたのであった。。
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