『半島を出よ』あるいは希望について

 村上龍さんの『半島を出よ』、ラッキーなことに念校をいただくことが出来、発売に先駆けて読了する。久しぶりの書き下ろし小説、『五分後の世界』と同じ構築系、しかも上下巻で1000ページ以上、ということで期待は最高潮だったが、期待通りの傑作だった。常々「時代を先取りする」という形容詞をつけられる村上さんだが、本作ではそのもの、近未来小説となっている。5分後ならぬ5年後。だから本当に丹念に細部がかきこまれている。「細部のリアリティにとことん拘ることが、物語のリアリティを作り出す」と前にどこかで言っていたが、1000枚をかけてまさに近未来でありながら「あり得る」と読者を唸らせる物語世界を構築している。軍隊や政府機関などは、そういったところではリアリティを作り出しやすいのかもしれない。さらに、本作では章ごとに語り手の視点が異なっている。日本側、北朝鮮コマンド側、しかも一人一人が違う。当然のことながら、一人一人のリアリティは違う。そのことがあらゆる視点が交差することで、物語全体としてのリアリティを紡ぎ出していることはこの作品の大きな特徴だと思う。
 この小説は恐らく北朝鮮拉致被害者の問題の前から構想されていて、そして発売された今は、北朝鮮は核実験をすると報じられ、韓国や中国では反日気運が高まり、まさに日本がアジアの中で孤立の道を歩むのかと思わざるを得ない時期で、北朝鮮コマンドが福岡を占領し、諸外国はこれを黙認し、日本政府が福岡を切り離すというこの物語のプロットに、一定のリアリティを感じられる空気がある。しかし村上さんはもちろん、政治的なことをここで描きたかったわけではないし、仮想的として北朝鮮が一番現実的だと思ったわけでもないと思う。そうではなくて、「他者」というか「異物」が日本という「共同体」に入り込んできたときの「リアリティ」を村上さんは描きたかったのではないか。
 日本社会は基本的に異物を受け付けない。排除する。受け入れる文脈を共有していないし、受け入れるだけの主体を構築しているわけでもない(そのことは日本政府の対応に描かれている)。そうしたときに、ただたんに異物が入ってきて大変だった、というわけではなくて、異物としている他者にも他者のリアリティがあり、そのリアルとリアルがぶつかったときに、そこに否応なく向き合わざるを得ない状況というのをプロットとして用意したかったのだと思う。北朝鮮は好戦的だったりキムジョンイルだから北朝鮮にしたのではなく、あくまでも「あまりにも現実が知られていない」日本にとっての異物だからこそ、北朝鮮だったのだと思う。
 もう一昨年になるが、村上さんに北朝鮮の映画を見せてもらったことがある。そこには普段僕たちが意識する北朝鮮とはまったくちがう、日常の北朝鮮と、日常の中に巧妙にすり込まれている主体思想と、両方において興味深い映像が流れていた。そのリアルさを担保にしたとき、他者として福岡に現れた北朝鮮に対峙する日本のリアルはあまりにも儚い。
 では「リアル」「リアル」というが、何がリアルなのかと考えたときに、村上さんが提示したものが「イシハラ・グループ」なのだ。殺人や放火やとにかく社会からドロップアウトした若者たち。彼らの行為はつまりは生きている世界の中でリアルなものをなんとか見つけようとして犯した行為にすぎない。彼らはイシハラの元でなんとか生きることのリアルというか、いちいち「社会」との折り合いをつけずに生きられているが、毒虫と毒ガエルしか興味がなかったり、武器オタクだったり、テロに人生を捧げたいと思ったり、そういう中でしか「リアル」を実感できない彼らは、北朝鮮コマンドのリアルと、表層で生きていないという点で実は同質なのだ。
 だから、日本の中ではどちらも「異物」としてしか生きられない。しかし、北朝鮮コマンドの存在の強度が日本を揺るがせたように、イシハラ・グループの持つリアルの強度だけが、それに対峙し、日本を救い得る。日本でそのような「強度」を孕む存在がいたという点において、「奇跡の物語」というのは言い得ているのかもしれない。
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