『グランド・フィナーレ』あるいは小説の可能性

 芥川賞(第132回)を受賞した阿部和重の『グランド・フィナーレ』を読了。週末には仲間とクラブでバツを決める映像会社勤務の男が小児性愛癖から離婚されたあとも小学生の娘を異常な形で偏愛していく、というプロットは、まぁ小説的というか映画的というか、絵にはなるんだけどリアリティはどうなんだろう。まぁ今の日本ならそういうキャラも生まれるかもしれないね、とも思う。とりあえず流行りで先鋭的なところを記号的に並べた気もしないでもない。でもそれでいいのか。小説の主人公だもんね。
 そんな記号的な男に対して強度をもってリアルを突き出したのは、小児性愛の被害者となって自殺した友人のことを男に語るクラバーの女や、少女性と絡まるように死への予感を漂わせる親友同士の少女たちだ。その少女たちを通して初めて、男は「少女を救う」ために「少女と関わる」決意をする。つまりはそれだけの話なのだが、他者と関わるということの本質的な契機がどのようにしてあり得るのか、ということをこの小説では描いていると思う。そこまでの男の心の軌跡は、特に終盤はよく描けていたと思うし、救済の物語としては希望が残っていたと思う。
 「文学が、ようやく阿部和重に追いついた」と帯コピーにあるが、友人のライター、神谷弘一が確かに数年前にそう言っていたのを想い出す。「彼は最後の大物だ」と。
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