Dogville

 DVDで『ドッグヴィル』を観る。劇場公開時から、その特異な舞台設定に興味をひかれていたのだが、いざ観てみると、予想通り、というか予想以上に見応えのある面白い映画だった。映画の楽しみとはこういうところにあるのだろう。監督はあの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のラース・フォン・トリアー。舞台は体育館のような広いホールの床に、白い線で道と家の輪郭が書かれただけの2次元の舞台。そこが「世間から隔絶した村」=ドッグヴィルだ。まずこのミニマルな舞台設定だけで十分に興味がひかれる。当然ながら、ロード・オブ・ザ・リングスとかマトリックスとは対極の舞台設定(時代・場所)と舞台セッティングだ。
 ストーリーはネタばれになるのであまり書かない。監督は「復讐」をテーマとしていたが、日本人の僕には「世間」ということばが頭から離れなかった。ドッグビルとはつまり古い村落共同体の価値観を持つ村で、しかも外部との交通がほとんどないために価値観と人間関係が非常に固定されている。そこに突如迷い込んだグレース(ニコール・キッドマン)に対し、最初はまったく部外者として受容せず、しかしいったん受け入れるとすると、そこには贈与と負債の強固な円環の中に一気に取り込んでしまう。おそらくそうすることでしか、その狭い社会は安定しないのだ、と言わんばかりに。「ドッグヴィルがついに牙をむく」というチャプターがあるのだが、本当に村自体が一つの人格なのであって、その成員には、個人としての、人間としての個の自意識、他者との緊張感というものがあるのに、それを有効に発露する回路が決定的に欠如してる。その鮮やかな「個と共同体の自意識の非対称性」を、グレースが一心に受ける様は、非常に説得力があると思う。本当の他者=それは観客でもあると、この舞台上で演じられている世界の距離感、その距離感こそが、真実の宿る場所であり、そういう自意識を観るものに問いかける映画だ。
 そして最後は、やはりこの監督だからだろう。一気にカタストロフィが訪れる。「赦し」とは何なのか。この人々を赦すことは人間の傲慢ではないか。神ではない人間がなぜ彼らを赦せるのか。答えは否であった。神ではないから「赦す」ことはできない。だから裁かなければいけない。なぜなら彼らは「犬」なのだから。その息をつかせぬ最後の展開は、だが一定の理性と必然性を観るものに突きつける。極限までシンプルなその世界設定から紡がれる物語は、しかし非常に饒舌だ。
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