日本社会の格差(1)

 とある著者から「格差の本をつくろうか」と言われ、さしあたり、以前読んだ東京大学の佐藤俊樹助教授の『不平等社会日本ーさよなら総中流』(中公新書)に加え、京大教授の橘木俊詔氏『日本の経済格差ー所得と資産から考える』(岩波新書)、「中央公論」編集部編『論争・中流崩壊』(中公新書ラクレ)を立て続けに読む。『日本の経済格差』は経済学者による分析で、ジニ曲線など数量的な分析方法を使って、日本の所得分配が80年代以降不平等化に向かっていることを、『不平等社会日本』は社会学者によるSSM調査(社会階層と社会移動全国調査)をもとにした社会調査の手法で階層の固定化に注目し、それぞれ現代の日本が階級社会へと向かっていると提起。論争を巻き起こした。だがこれには異論も多いようだ。
 論争の経緯は『論争・中流崩壊』に詳しいが、それぞれ、データ調査において不備や恣意性が見られるといったもので、つまりは「中流」というものが壊れているのか、分化、多様化しているのかどうか、という点が焦点となっている。特に、階層の世代間における固定化については、それがホワイトカラー上級職というカテゴライズにしか着目していないところがポイントだろう。それは、昨今の週刊誌がこぞって不況やリストラといった暗いニュースを垂れ流すが、それが結局、中年男性サラリーマンのことでしかなく、あたかも社会全体で起こっているかのように報じられるそれは、実は狭い世界の中でのことでしかない事実と呼応している。今一度確認しなければいけないのだが、例えば玄田有史さんは、『仕事の中の曖昧な不安ー揺れる若年の現在』で20代若年層の10%を超える失業率(離職率)こそが社会の中の問題であると指摘している。歪められた論争は、歪んだ社会像を映し出す。
 僕が疑問に思ったのは、結局「階級格差」の問題が、「格差の拡大」を論じる場合も、「格差は拡大していない」という場合も、どうも「階層・格差」というもののとらえ方が間違っていないだろうか、ということだ。いわゆる上流・中流・下流という意味での格差が、固定化されたり、格差が開いたりすることを、私たちは恐れているのではないと思う。そうではなくて、だれもがそこを自由に行き来できるからこそ生まれる「格差」、個人に根ざした格差こそが、人々を不安にさせているのではないだろうか。あるいはその意味で著者は「格差」を取り上げたいのではないだろうか。そのことは(2)でまた書きたい。
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