Bowling for Columbine

 会社を休んで家で『Bowling for Columbine』のDVDを観る。99年4月にアメリカ中西部の街で起きたコロンバイン高校の銃乱射事件を題材にした「アメリカの銃社会について」の映画という触れ込みにはあまり惹かれなかったので観ていなかったが、内容は全然違った。これは「不安を植え付けられる社会」としてのアメリカを端的に描いている。銃を手放さないのも、外国に行って爆弾を落としてくるのも、黒人男性の殺人事件が過度にメディアで流されるのも、全てはこの「不安を植え付けられる」社会というプリズムの異なる光彩でしかない。だから、コロンバイン高校の事件と911の映像がつなげられても、違和感を感じることがない。その連続性は驚くべき事だ。
 自分たちは、アメリカやアメリカ文化が身近なようでいて、実は全然分かっていないということを改めて思い知らされる。銃を持つ「自由と権利」や白人至上主義やあまりにも退屈な田舎都市の日常を僕たちは分かっていない。文化は輸出できても、「不安を植え付ける社会」をアメリカは僕らに輸出できなかったのだろう。なぜなら、今もまたイラクで、彼らは失敗を繰り返している。
 作品中で僕が注意を引かれたのは、高校生の日常についてインタビューしているところだ。小学校6年で選別がされ、7年でされ、8年でされ、どんどん「良い生徒」と「だめな生徒」が分けられていく。一度「だめ」だと言われると一生「だめ」なまま生きていかなければいけない、と想像することの恐怖を僕は少しは分かるつもりだ。フランスのエコール・ド・パリの話ではない。アメリカの片田舎の平凡な高校でそういう恐怖心と隣り合わせで生きている高校生がいる、という次元から考えていくことが必要ではないかと思ったが、作品の中ではそれ以上踏み込んだものはなかった。メールマガジンJMMで冷泉彰彦氏が指摘していることの意義を改めて噛みしめる。
 「メディアこそ正義を実現する最高の武器だ!」とマイケル・ムーア監督が言う時、そこに「武器による正義の実現」という、敵と同じレトリックが容易に潜り込み得る点を指摘することは容易い。それでも、その威力ある武器の正しい使い方を示したこの映画の功績は大きいと思う。
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