Plologue

 90年代から00年代へ、僕たちはまだ生きている。20世紀から21世紀へ、それはあまりにも凡庸な変化だが、ちょうどそれが世紀を「越える」時代であったように、僕たちは、いつも何かを越えよう/超えようとしてきた。それは何だ?
 一つの言葉を見つけること。「トランス」。英語ではTRANS-/TRANCEと書くこの言葉は、何かを越える/超えるイメージを持つだろう。そして、越えるということは、AとBの間の障壁を壊すこと。AからBへ移ること。AとBを結ぶこと。Aという次元から自由になること……。
 現代日本の希有な思想家、柄谷行人がその著書『トランスクリティーク』で示したカントからマルクスへの跳躍と接続。それが、今なおこの僕たちの生き方を規定し続ける高度資本主義社会への唯物論的批評と、ポストモダンを経てもう誰も内面の自明性を予見できなくなった主体性への根元的、倫理的批評を「結ぶ」ものだとすれば、僕たちはまだ、この20世紀に書かれ21世紀に刊行された柄谷的問題の射程内にとどまっている。
 トランスクリティークとは、柄谷によれば、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む「transcoding」の試みである。同じように、僕はこの00年代の「トランス」の時代を縦横にtranscodingしてみようと思う。トランスについての、トランスな批評。それは常に場所を変え、時代を越え、思想を超え、紡ぎ続けられるはずだ。
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